明治維新後、大久保利通を中心とした新政府は、殖産興業のための社会資本整備と不平士族の職業対策として土木事業を進めました。この事業として進められたものが、琵琶湖疎水、安積疎水であり、宮城県内では貞山運河、北上運河の整備、野蒜築港事業がありました。
こうした近代的国土整備の一環として明治29年に旧「河川法」が制定されます。それでも北上川流域の整備が大きく進められるにはきっかけが必要でした。そのきっかけになったのが明治43年水害です。
明治43年8月、関東・甲信越・東北地方の太平洋側を中心に1都15県で豪雨があり、利根川、荒川、多摩川、信濃川、富士川、北上川、阿武隈川などで破堤・氾濫が起こり、土砂災害と合わせ死者・行方不明者2,497人、堤防決壊約7,000箇所、橋の流失約7,200箇所、山崩れ約18,800箇所という大被害が発生しました。宮城県内でも320人の死者・行方不明者が出ています。
明治43年水害 東京下谷区の被害状況
その損失額は約1億1,200万円、当時の国民所得の3.6%に相当したといわれています。この災害を契機に、第1次治水長期計画が制定され、北上川も直轄施工河川として治水工事に着手することになりました。この時の北上川改修の目玉は、川村孫兵衛が締め切った柳津-飯野川間を再度開通し、追波川に北上川本流の水を流すことでした。
明治44年1月から開かれた帝国議会衆議院で、内務省技師(旧内務省は現在の国交省、総務省、警察庁などの機能を合わせた巨大な権限を持った官庁でした)沖野忠雄は次のように述べています。
「北上川の治水策は難しいのでありますが、(中略)柳津というところがあります。其の柳津から1本新川を作り(略)追波川に落とす。本流は石巻の港に落とす。(略)そうすると洪水の逆流を一切避けることができるのであります。」
というわけで柳津-飯野川間の新北上川の開削から北上川第1期改修工事が始まりました。ただこのためには、柳津町の市街地が流路になるため、市街地の三百軒が移転するという犠牲を必要としました。工事は大正元年11月に始まり昭和6年3月に新北上川は通水します。
蒸気機関を用いた新北上川の掘削工事
その後改修工事は以下のように進みます。
・飯野川-追波湾の間の浚渫
・柳津から上流のかさ上げによる既設堤防の強化
・石巻湾の浚渫、河口導流堤の建設
・飯野川可動堰の建設
・旧北上川との分流点に鴇波洗堰、脇谷洗堰の建設
また、懸案であった迫川の改修は、新北上川の通水後、昭和7年に登米市山吉田から旧北上川へのショートカット工事が始まり、これが現在の迫川になっています。迫川の開削工事終了は昭和15年(1940年)、登米郡住民の悲願は実に300年かかって実現したことになります。
北上川と旧北上川の分流施設である鴇波水門、脇谷水門の完成は平成20年3月、これをもって北上川改修工事は一応の完成を見ました。これらの分流工事の結果、現在の計画高水流量(百年確率で最大の水量が流れたときの計画流量)は、北上川(追浜川)が8,700m3/毎秒、旧北上川(石巻)が2,500m3/毎秒となりました。これは、狐禅寺狭窄部以北の岩手県側に降った雨は追波湾に流す、宮城県側に降った雨は石巻湾に流すということを意味しています。(これは想定最大降水の場合であり、普段はその時々の水量を勘案して分流しているわけです)
現在の北上川下流域の複雑なありかたは、伊達政宗の着手以来400年にわたった治水工事の結果だったのです。
北上川と旧北上川を分流する現在の脇谷水門
明治以降の北上川下流域の流路
主な参考文献・資料
「日本の自然2・東北」岩波書店
「北上川物語」河北新報社
地域地質研究報告「登米地域の地質」
内田和子「一関遊水地の展開過程」(1984)
松浦茂樹「明治43年水害と第一次治水長期計画の策定」(2008)
阿子島功「北上川中下流域の河谷底の構造」(1968)
〃 「磐井丘陵の地形」(1969)
大熊孝「洪水と治水の河川史」平凡社
国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所ホームページ
〃 北上川下流河川事務所ホームぺージ
国道交通省関東地方整備局ホームページ
一関市ホームページ