北海道の地名には独特の響きがあります。俱知安(クッチャン)、音威子府(オトイネップ)などの地名を初めて知った時は、なんというか不思議な世界に引き寄せられるような憧れを持ったものです。歌志内(ウタシナイ)なんて地名は、漢字だけでも素敵です。
ご存じのようにこれらの地名はアイヌ語に漢字をあてたもので、北海道はもともとアイヌ民族の地でした。アイヌ民族は、狩猟、採取を生活の糧にしていたため、明治時代に開拓使による開発が始まる前はほぼ自然状態を維持していました。
石狩平野も新潟平野同様、最終氷期終了後の世界的な温暖期(8,000年前~6,000年前頃)には海水準の上昇により、広い内海になっていました。砂州が発達し、それを石狩川などが運ぶ土砂が埋め立て、また、海水準の低下とあわせ、およそ2,000年前には現在の海岸線に近いところまで陸地になっていたと考えられています。
石狩平野の形成過程(8000年前から現在)
北海層の川は本州などに比べ、現在でも自然河川の趣をとどめています。石狩川も開拓がはじまる前は大きく蛇行する原始河川でした。下の写真はシベリア東部を流れるアムール川の航空写真です。流路は大きく分流と合流をくりかえし、周囲には旧流路跡がはっきり見られます。アムール川は規模が大きすぎて全体像が分かりにくいので、サハリン南部にあるポロナイ川も見てみましょう。ポロナイ川は長さが信濃川、流域面積が淀川クラスとされています。
上空から撮影したアムール川
ポロナイ川(Google地図を編集)
支流を含めて合流、分流をくりかえし、大きく蛇行しています。また、旧流路もよく分かり、大きくなんども流れが変わっていますし、流路短絡による三日月湖跡もよく分かります。石狩川は現在もこのような流れの跡を残していますが、北上川、利根川、木曽川などの日本の同じサイズの大河川も、人の手が加わる前はこのような流れ方をしていたはずです。
平地を流れる川は、蛇行という名前のとおり、ヘビが進むようにうねうねと曲り、屈曲自体も下流に進み、流路を変えていきます。大きな川ほど蛇行のサイズ(幅と波長)が大きくなります。蛇行が著しく進むと、くびれた部分がつながり、以前の流路が三日月湖となります。こうした曲流河川は著しく流路が長くなり、水が河口に出るまで時間がかかるため、増水するとたやすく氾濫します。
この著しい石狩川の蛇行が石狩平野の大きな特徴のひとつです。神居古潭を抜けた石狩川は、狭窄部の出口に小さな扇状地をつくった後、深川市から下流を蛇行しながら流れます。特に滝川から岩見沢にかけては著しく蛇行しています。
石狩平野のもう一つの特徴は、泥炭地が広がっていることです。泥炭地は石狩平野の形成とともに作られてきました。
草や木が枯れて土の中に埋まると、地中のバクテリアの働きで分解され土にかえります。しかし湖や沼の縁のような水分が多く、かつ低温のところではバクテリアの働きが不活発で、分解されずにスポンジ状、繊維状の土塊となります。これが泥炭です。現在でも北海道の釧路湿原やサロベツ原野では泥炭が形成されています。本州以南では、尾瀬ヶ原などの高地にある湿原に限られています。
泥炭は石炭の形成過程の初期とみなされ、かつては乾燥させて燃料として用いられることもありました。泥炭地は極めて軟弱で、圧縮されやすく、大変に問題のある地盤です。建築だけでなく、道路や堤防の建設でも十分な対策が必要になります。石狩平野では日本の他の地方にはみられない広大な泥炭地が形成されました。
現在の北海道は日本最大の農業県(道)です。酪農や小麦、大豆、ジャガイモなどの畑作物は圧倒的なシェアを持っています。石狩平野には広大な水田が広がり、稲作でも新潟県に次ぐコメの収穫量を誇っています。しかしそのためには、これまで述べてきた石狩平野の特徴、大きく蛇行し氾濫しやすい石狩川の流れを抑えること、排水路を整備し客土して泥炭地を農地に変えるという長い戦いが必要だったのです。
去る4月9日に仙台市戦災復興記念館で行われた、(株)東北開発コンサルタント様の「2025年度全社安全大会」において、弊社が安全表彰を受けました。(株)東北開発コンサルタント様は弊社創立以来の長年の発注元であり、主に電力事業の調査業務の下請けとして参加させていただいてきました。
今回の表彰は長年の弊社の安全に対する取り組みと、それを実現する社員、協力会社の現場での作業に対する評価と受け止めています。
弊社代表取締役熊谷が、受賞者を代表して以下の受賞挨拶を述べました。
本日は私共の安全に対する取り組みを表彰していただき、ありがとうございます。推薦してくださった東北開発コンサルタントの皆様に、弊社を代表して御礼申し上げます。
事故を無くすということは本当に難しいことだと痛感しております。実際、労働災害は減少しているとはいえ、その減少傾向は頭打ちで、根絶とは程遠い現状です。法の整備や設備の改良だけではなくならないのです。それはヒューマンエラーというファクターがあるからです。
私共の仕事はやはり危険と隣り合わせであり、私も長い経験の中で、骨折や縫ったりという経験をしています。私だけでなく、長く仕事を経験したベテランは痛い思いをして、何が危険な行為かを理解してきましたが、若い人たちには実際の事故を経験せずに危険を感じられるようになってほしいと思っています。また、そのためにこれまでの多くの事故事例を教え、どこに危険の芽があるのか伝えています。
元請け会社の皆さん、社員、協力会社、その事業に関わる人全員が、そうした危険に対する感受性を高め、フランクに話し合える関係を作っていくことが、遠まわりのようでも最も安全を高める方法ではないかと考えています。
今回の表彰を励みに、社員、協力会社一同取り組んでまいりますので、引き続きご指導、ご鞭撻を賜りますようお願いしたします。簡単ではありますが、受賞のあいさつに代えさせていただきます。改めてありがとうございました。
また、当日は東北電力株式会社安全保安管理室の方の安全講和がありました。その中で、作業員同士、作業員と監督員の間で、一声かけていれば防げた事故の例が紹介されました。「なぜお互いに知らない仲でもないのに声がかけられなかったのだろう」という問いかけがあり、「東北電力グループでは【相互啓発型】の安全文化をめざしています。この実現は容易ではありませんが、まずは一番の基本である「声をかける」ことを日ごろから意識してほしい」という呼びかけがありました。
この講話は、安全な作業の実現が、規則による規制や設備の充実だけでなく、作業における人間関係、コミュニケーションの重要性を問いかける、非常に重要な提案だと思いました。
毎年4月に健康診断があります。一番嫌いなのが聴力検査です。ヘッドホンを付けて「音が聞こえたらボタンを押してください。音が消えたら離してください」というアレですね。もう引退した先輩が「音がしないのに、音がしたら押せっていう馬鹿な話があるか!」って怒っていました。私も毎回高音が全く聞こえません。両耳ともだめです。で、毎回健康診断の結果で「要精密検査」と判定されます。耳鼻科に行ったら「まあ、年を取るにしたがって聴こえにくくなるのは自然ですよ」と言われました。補聴器を付けるまでではない、というのでそのままにしています。
この経年劣化というか年相応というか、これは体のあちこちに来ています。目も「白内障の初期ですね。まあ、年相応ですよ」と眼科で言われ、腰痛も「あなたね、年を取ると軟骨がすり減ってくるのは自然のことで、治療しても治るわけではないですよ。炎症を抑えて痛みを取るだけですからね」と言われました。
ところで、難聴(耳が遠くなる)でよくあるのが聞き間違いです。テレビで「女墓場放浪記」と聞こえ、なんでまた女性がわざわざ墓場を放浪するんだろう?と不思議に思ったら「女酒場放浪記」でした。ラジオで「ハウルの動く城」の中の曲が流れていて、この曲なんだっけ、と聞いたら「世界の薬局」だよ、と言われました。不思議な曲名だなと思ったら「世界の約束」でした。同じように、「ヤマンバの男」という曲が流れていて、「ムムム・・、ヤマンバは女ではなかったのか」と思っていたら「ラ・マンチャの男」でした。
ウーム、この調子ではあっちこっちで聞き間違いをしているのではないか、と内心心配しているのですが、幸いクレームは来ていないので、まあいいことにしています。実際は周りの人は困っていても、社長だから文句を言わないだけかもしれません。
言い訳するわけではないのですが、アナウンサーさんの発音は聞き取りやすいですね。テレビの音量を小さくしてもよく聞き取れます。困るのは、もごもご話す人、そばで聞いていてもよく分かりません。
体に不調を抱えている人は私に限らず、当社でも50過ぎの人はだいたい腰が痛い、膝が痛いと、どこかしら痛みと付き合いながら働いています。もっとも若い人でも腰痛持ちがいたり、花粉症で困っている人もけっこうたくさんいます。今は花粉症の季節なので、ゴーグルをつけて出勤してくる人もいます。
それもこれもそれぞれの社員の個性というか特徴です。それぞれがお互いの特徴を理解し、助け合いながら働くしかありません。もちろん自分の特徴を理解し、体調を整えて働くことも大事です。
寒の戻りで、膨らんできた桜のつぼみもまだ開かないままです。もう少しなんだけどな、という感じです。来週からは気温も上がり、春本番になるという予報です。桜も一気に咲くのではと期待しています。新しい年度を迎え、体調を整えて安全第一で頑張っていきましょう。
当社の駐車場の桜 もうすぐ咲きそうです(4月3日撮影)
東北地方に住んでいると、地図で北海道の地形を見た時、どうも腑に落ちないところがありました。東北地方では南北に続く山地と低地が東西にきれいに並んでいます。北上山地―阿武隈山地、奥羽山脈、出羽山地の列と、北上盆地―仙台平野―福島、郡山盆地、横手から米沢の盆地列ですね。この並びは大地形で見ると日本海溝と並行しています。また、火山列もほぼ同じです。東日本だけでなく、西日本でも、概ね山地―平野―火山列の方向は南海トラフと並行しています。ところが北海道では千島海溝と山地の方向は平行ではなく、むしろ直交しています。
北海道中央部の大きな山地は東西二列、東側は北見山地―日高山脈、西側は天塩山地―夕張山地があり、その間に頓別平野、名寄盆地、上川盆地、富良野盆地と続く低地帯があります。北見山地を日高山脈は中央の大雪山地でつながっていますが、日高山脈が西側にずれた位置関係となっています。
火山の並びを見ると、東の千島列島から知床、阿寒、大雪山系、西部の支笏、洞爺、駒ケ岳、恵山とほぼ東西に並び、千島海溝からの距離も同じで火山フロントを形成しています。そして、北海道中東部と渡島半島は、石狩平野と勇払平野の低地帯を境に、東西にはっきりと分かれています。
北海道の地形(地理院地図を編集)
北海道の形成史は次のように説明されています。新生代中新世以前、つまり日本海拡大以前の北海道西部は東北日本と連続してユーラシア大陸のシホテアリン地方にありました。そこには中生代白亜紀(恐竜がいた時代ですね)から古太平洋プレートが沈み込み、現在の火山フロントと同様な活発な火山活動がありました。当時の火山地帯の深部にあったマグマが固まった花崗岩が現在日高山脈中軸部にあり、沈み込んだプレートが地下深部で変成したものが、神居古潭の渓谷に見られる結晶片岩や蛇紋岩として露出していると考えられています。
およそ2000年前から1500万年前に日本海が分裂し、日本列島と北海道西部が現在の位置に移動しました。このことは何度も書いてきましたし、日本の地形、地質を考えるときに必ず出てきます。しかし、なぜ日本海ができたのかは、さまざまな説がありますが、まだよく分かっていない、というのが現実です。
プレートが沈み込む海溝―弧状列島―その背後にある海盆(縁海と呼びます)の組み合わせが日本列島を作っています。日本列島周辺には、北からアリューシャン列島とベーリング海、千島列島とオホーツク海、東西日本弧と日本海、伊豆小笠原弧とフィリピン海(四国海盆)という組み合わせが連続しています。
海溝からのプレートの沈み込みによって、プレート直上のマントルが引きずり込まれ、それを埋め合わせるために、地下深部から暖かいマントル(マントルウェッジ)が上昇し、地殻を分裂させる、という考え方で説明されていますが、すべての海溝で弧状列島と縁海があるかというとそうではありません。海溝―弧状列島―縁海の組み合わせは、太平洋北部から西部に限られます。最近ではもっと広く、インドプレートとユーラシアプレートの衝突により、広範囲なマントルへの影響があるのではないか、という考え方もあるようです。多くの地質学者、地球物理学者がこの難問に取り組んでいますが、しばらくは解答が出ないようです。
それはともかく、ほぼ現在の位置に移動した西部北海道に東から東部北海道が衝突、結合したと考えられています。
知床半島から千島列島の国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、ウルップ島はみな同じように東北東の方向を向いて並んでいます。これを雁行(がんこう)配列と呼びます。雁行配列は活断層が横ずれ運動をしたときに現れる形としてよく知られています。千島列島の弧の外側(南側)が西方向に動く、右横ずれ運動を起こしているためにこの形になり、それは太平洋プレートが斜めに沈み込んでいるため、と考えられるのです。
この斜め沈み込みの力は北海道南東部まで連続しています。十勝平野東の白糠丘陵、日高山脈、馬追丘陵などは、みな東側に凸の弓形をしています。石狩平野も大きく見ると弓形をしています。これらの変形はこの斜め沈み込みの圧力によるものです。最初に述べた北海道の地形の特徴は、プレートの沈み込みの方向と海溝の方向の不一致が原因だったのです。
この衝突によって大きく隆起したのが日高山脈です。かつて地下深部にあった花崗岩や変成岩が地表に現れ、いわばめくりあがった状態になりました。そして長い間の浸食により現在の鋭角な山稜を持った姿になりました。
北海道西部の渡島半島は地質的には東北地方北部と連続し、東北日本弧の一部とされています。そしてこの東北日本弧と千島弧である中東部北海道の接合部にあたるのが石狩低地帯であり、今回述べる石狩川の主な舞台となります。石狩低地帯も北海道圧縮の影響を受け、低地帯東西境界の断層に区切られた沈降地域にあたっています。反射波地震探査と大深度ボーリングの結果から、第四紀に堆積した地層がおよそ地下1,000mまであることがわかっています。
札幌から旭川にむかう途中に新十津川町という小さな町があります。反対側は滝川市、南隣りは砂川市、西側には増毛山地、東側は夕張山地に囲まれた石狩川沿いの田園地帯です。信濃川に続いて、これも日本を代表する大河川である石狩川について書いていきますが、まずはこの小さな町から話を始めます。
新十津川町の田園風景(新十津川町ホームページより)
新十津川町の名前は、奈良県吉野郡十津川村の住民が入植して開拓したことに由来しています。作家の川村たかしさんが児童小説「新十津川物語」で、この町の開拓と成長を描いています。単行本全10巻の長い物語ですが、子供向けに描いているので大変読みやすいです。また、1991年に斉藤由貴さん主演で、NHKでドラマ化もされているので、覚えている方もいるかもしれません。(古いなあ・・)
平成23年紀伊半島水害は、東日本大震災と同じ年に起きた水害で、和歌山県南部を中心に、深層崩壊や土石流などの土砂災害が多数発生し、死者56人、行方不明者5人の犠牲者が出た大きな災害でした。熊野川流域は山が深く、土砂災害が多いことで知られています。十津川村は1889年(明治22年)8月に起きた十津川大水害で壊滅的な被害を受けました。
十津川村内で大規模な山腹崩壊が1080カ所で発生、37カ所で天然ダムが形成され、その崩壊による洪水で甚大な被害が出ました。村民12,862人のうち死者168人、家屋の全半壊は、全戸2,403戸のうち1/4の610戸、生活の基盤を失った人は約3,000人にのぼりました。
村での生活再建をあきらめた2,691人が新たな生活を求めて、北海道に渡り、新十津川村を建設することになったのです。「新十津川物語」の主人公である9歳の少女は、両親を失い、兄と親せきとともに北海道に渡り、北海道の冬の寒さと戦いながら原生林を切り開き、田畑を開墾していきます。
そこに襲いかかるのが石狩川の洪水です。せっかく作った作物も田畑も洪水による泥土に埋まってしまいます。開拓をあきらめ離農していく人も出てきます。特に明治31年には8.2mという水位を記録する洪水が襲いました。これを機に石狩川第1期改修計画が動き出すのですが、詳細はまたあとで。
明治31年水害 砂川付近状況(国交省水管理・国土保全局ホームページから)
ともあれ、主人公は夫を日露戦争で、子供を第二次世界大戦で失ったりしながらもこの地で生き続けます。話は子、孫、ひ孫の代まで続くのですが、その背景に常にあるのが石狩川の水害です。この児童小説を読んでいると、いかに当時の人たちが水害に翻弄されていたのか、治水事業を強く願っていたのか、ということがよく分かります。
いまでも水害はあります。それでも堤防があり、ダムがあり、川の流路は固定され動かない時代に私たちは生きています。明日も明後日もこの状態は変化しないだろう、という前提で生活しています。しかしかつてはそうでなかった。人の手が入っていない原野を切り開くところから始まった、北海道開拓の歴史でそのことが分かります。
さて、ではいつものように石狩川の流路と、新十津川町の位置を見ていきましょう。
石狩川流路図(国土地理院地図を編集)
石狩川は、北海道の屋根、大雪山系石狩岳(1967m)を源流とし、旭岳を回り込むようにして旭川のある上川盆地に入ります。上川盆地では忠別川や美瑛川などの大雪山系からの多くの支流が集中し、その後神居古潭の狭窄部を通過します。神居古潭は天塩山地から夕張山地に南北に続く山地の唯一の鞍部にあたっています。上川盆地はこの上流部の遊水地の役割を果たしており、粒径の大きな砂礫を堆積させ、ここから下流は細粒土(細かな砂や粘土)を運んでいきます。
神居古潭を抜けた石狩川は、深川から先は大きく蛇行しながら石狩平野を流れ、途中の滝川市で雨竜川と、砂川市で富良野盆地から流れてくる空知川と合流します。この合流点の右岸が新十津川町です。さらに札幌の西の江別で夕張川、南の支笏湖から来る千歳川と合流し、石狩市で日本海に出ます。
以前にも書きましたが、およそ3万年前の支笏火山の噴火で大量の火砕流が覆う前は、石狩川は南流して、苫小牧付近で太平洋に流れ出ていたと考えられています。苫小牧で太平洋に流出する勇払川と石狩川水系千歳川の分水界はちょうど千歳空港付近になります。標高13.7m、日本海と太平洋の最も低い分水界です。
石狩川の流路長は268km、流域面積は14,330km3、北海道の面積のおよそ18%を占めています。