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信濃川についていろいろ(5)信濃川の水害と新田開発

2024年07月04日

 新潟県の信濃川水害の記録を見ていると、気の毒になってしまうほどです。記録のはっきりしている1700年頃代から見ると、毎年のように「××で破堤、田畑の被害何万石」という記録が残っています。長岡藩、新発田藩、幕府代官所は人命の救助と食料の確保に右往左往していた様子がうかがえます。数多くの水害のなかでも、近世から近代最大で、信濃川=越後平野の水害の典型例が、明治29年7月22日に発生した大洪水「横田切れ」です。

 「横田切れ」は西蒲原郡横田村(現在の燕市横田地区)において、信濃川の堤防が約300mにわたって決壊し、信濃川下流部が広範囲にわたって浸水した氾濫被害です。下は浸水範囲を示した地図です。被害面積180km2、床下床上浸水4万3600戸、流失家屋2万5000戸、死者75名という被害でした。この浸水は長期間に及び、低い土地では12月まで水没していたそうです。影響は浸水にとどまらず、衛生状態の悪化により伝染病が蔓延しました。

        横田切れの破堤位置と浸水範囲

 下の航空写真は新潟市亀田地区周辺の土地の高低を表したものです。青い地域は日本海の平均海面より低く、鳥屋野潟は海抜マイナス2.5mとなっています。新潟平野は、現在でいえば茨城県の霞ケ浦や北海道のサロマ湖のような潟湖(せきこ)を信濃川や阿賀野川が運んだ土砂が埋め立てて造った平野です。そして構造運動によって現在でも沈降が続く、十日町盆地から連続する向斜軸に相当しています。低平であり、排水条件が極めて悪い沼沢地でした。したがって、信濃川の度重なる氾濫は新潟平野の形成史から見て宿命といえるものです。

 新田の開発は通常いかに水を引いてくるのかで苦労しますが、新潟平野ではいかに水を排除するのかが課題となりました。まず問題になるのが、川が海に出るのを邪魔している砂丘の存在です。正保4年(1647年)に描かれた絵地図を見ると、信濃川、阿賀野川、加治川はすべて合流して新潟の河口から日本海に流出していました。そのために排水されない水は多くの沼地に集中します。現在もある鳥屋野潟、福島潟、紫雲寺潟などはその名残です。

 新潟平野では、排水路を掘削し、その土砂で沼を埋め立て、新田を開拓する作業を、各藩と農民が営々と続けていました。しかし泥に浸かって稲を育てても、連年の水害によって3年に1度しか収穫できない、さらに5年に一度は大洪水と言われる状態が続きます。

 これを変化させたのが、1730年の阿賀野川の分流です。これは半ば偶然に起きた事態でした。もともとは紫雲寺潟の干拓のために新発田藩が阿賀野川のショートカットを計画し、幕府に願い出たものですが、新潟港の水深が浅くなることを恐れた新潟の町民が反対します。そのため、増水時だけ水を日本海に流す予定で砂丘を掘削したのですが、翌年の雪解け洪水によって破壊され、幅270mの本流になってしまったのです。これが現在に続く阿賀野川河口です。この阿賀野川分流により、阿賀野川旧流路付近は土地が干され、大幅な新田開発が可能になりました。

 下の写真は昭和の時代まで続いていた新潟平野での農作業の様子です。泥田で腰までつかりながら田植えをし、刈り取った稲を船で運んでいることがわかります。司馬遼太郎は「街道をゆく―潟の道」で、こうした農作業の記録映画を見て次のように書いています。

「食を得るというただ一つの目的のためにこれほど激しく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くり返すという生産は、世界でも類がないのではないか」

 阿賀野川の分流以降も、新潟平野全体の湛水状況はさほど変わらず、厳しい環境が続きました。また、洪水被害の頻発も変わりませんでした。こうした状況を脱し、安定した農業と生活を築くためには、信濃川を分流して日本海に流す必要がある、という認識は早くからありました。しかし、新発田藩、長岡藩、幕府天領が混在し治水事業がそれぞれの思惑で対立するという状況があり、また村落同士の水利権をめぐる対立、新潟町民の信濃川の水深が浅くなると新潟港の機能が失われることへの反対が根強く、大きな新川の開削には至りませんでした。

 これを変えたのが最初に述べた「横田切れ」の大水害です。この水害により、ついに政府は「大河津分水工事」の実施を決定したのです。


信濃川についていろいろ(4)千曲川の水害(つづき)

2024年06月07日

 寛保2年(1742年)7月28日から8月1日にかけて近畿から中部、関東甲信越を襲った水害は、特に千曲川流域と関東南部に大きな被害を及ぼし、近世日本における最大級の水害と言われています。利根川、荒川周辺の水害は寛保二年江戸水害と呼ばれ、下流の江戸下町は高潮とあいまって一面が湖のようになったと伝わっています。関東での死者は14,000人を超えたと言われています(資料によりだいぶ差があります)。

 千曲川流域でも死者は3,000人と想定されており、やはり近世以降長野県で最大の被害の出た水害とされています。この年が戌年であったことから、信濃では「戌(いぬ)の満水」と呼ばれました。犀川流域では比較的被害が少なく、小諸、上田、松代(長野を中心とした北信地域)に被害が集中し、関東山地に降った豪雨が、関東地方では利根川、荒川に流出し、長野では千曲川に流出したものと考えられます。

 新潟県津南より下流の信濃川では、増水による氾濫で農地や家屋の被害は甚大でしたが、死者数は6人と意外なほど少なかったと記録されています。

(※丸山岩三「寛保2年の千曲川水害に関する研究」より)

 信濃の国のもうひとつの近世の大災害が1847年(弘化4年)の善光寺地震です。この地震は長野盆地の西縁に沿って分布する、長野盆地西縁断層帯(信濃川断層帯)が約50kmにわたって動くことで発生した、M7.4(想定)の地震です。長野盆地西縁断層の北西側が約2m隆起した典型的な直下型地震で、震源が極めて浅かったため、地表が激甚な揺れに見舞われ、大規模な災害となりました。

              長野盆地西縁断層の位置

 地震は旧暦3月24日(新暦5月8日)後の10時ごろに発生し、ちょうど7年に1度の善光寺如来御開帳にあたっていて、全国から多くの参詣者が集まっていました。門前町が大変な賑わいだったところに激震が襲い、火事と家屋の倒壊で数千人の死者が出ました。

                善光寺本堂

    善光寺地震の火事を描いた絵 「地震後世俗語之種」より

 善光寺地震では広範囲にわたる山地災害が発生し、松代藩領(現在の長野市、飯山市などの北信地方)だけで約4万2000カ所に及ぶ地すべりや崩壊が発生しました。特に長野市西方の地域に集中し、犀川とその支流の土尻川、裾花川流域で著しく発生しました。

 逆断層では一般に上盤側で大きな被害が出ることが多いことに加え、地層が主に新第三紀層の凝灰岩、砂岩、泥岩で構成され、風化が進んだ場所では崩れやすく、もろい岩盤となっていました。その中でも、犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)の大崩壊が二次被害を大きくしました。激震によって岩倉山の南西と北西斜面が崩壊し犀川を閉塞したのです。

 この河道閉塞により高さおよそ60m、湛水量3.5億m3と推定される巨大な天然ダムが形成されました。水位は徐々に上昇し、16日後には満水状態になりましたが、崩壊土量が多く、越流し始めてから崩壊するまで時間がかかり、決壊したのは19日後になりました。

 決壊した犀川の流れは善光寺平を襲い、その高さはおよそ20m、その後平野部に出てから流れが広がったため、高さを減じていきますが、小布施で10m、飯山で4m、下流の長岡でも1.5mの高さになったと伝わっています。その後およそ24時間で洪水流は日本海に達しました。

 数日前から決壊が予想され、警戒態勢が敷かれていたため、多くの住民が避難でき、この土石流による犠牲者は松代藩で22名、中野代官所管内で4名と比較的少なかったとされています。しかし、農地、家屋の被害は甚大で、その復旧には長期間がかかったのです。

 千曲川流域での近世で大きな被害が出た災害を2例取り上げました。少ない事例ですが、その特徴は、信濃の国が山国であり、山地に降った雨が一挙に川に集中し氾濫被害が大きくなりやすいこと、特に地形的な弱点である狭窄部と千曲川、犀川の合流点のある長野市から飯山市に被害が集中しやすいこと、土砂災害の発生が多いことがあげられると思います。

 では、下流部の信濃川の特徴は何か、次回以降見ていきましょう。


信濃川についていろいろ(3)千曲川の水害-2019年台風19号

2024年05月09日

 この写真は長野市にある、善光寺平の洪水水位標です。善光寺平という地名は、善光寺がある平らな土地という長野市の古い呼び方です。善光寺はおよそ1,400年の歴史を持つと言われ、全国から参詣者が訪れる大変に由緒のあるお寺です。

 それはともかく、この洪水水位標の一番上には1742年(寛保2年)8月2日、2番目に2019年(令和元年)10月13日の水位が表示されています。これだけ高い洪水があったことは驚きです。

 令和元年10月13日の記録は、台風19号のもので、関東甲信越から東北まで広い範囲で水害が発生し、令和元年東日本台風と命名されたことは記憶に新しいところです。この台風は典型的な雨台風で、静岡から関東南部、甲信越、東北地方で大雨となり、24時間雨量が、神奈川県箱根町で942mm、静岡県湯ヶ島で717mm、宮城県丸森町筆甫(ひっぽ)で588mmなど記録破りの豪雨になりました。

 24時間雨量900mmというと、丸1日で約1mです。これが川に集中するのですから、どれだけの流れになるのか想像を絶するものがあります。一級河川の千曲川、阿武隈川本流が破堤し(よく国土交通大臣がクビにならなかったものです)、広域かつ同時多発的に被害を発生させ、全国で死者、行方不明者108名、全半壊家屋12,125棟等の甚大な被害となりました(2020年10月時点)。

 全国で見ると、死者が最も多かったのは福島県で36名、阿武隈川が郡山、須賀川、本宮、伊達などで広範囲に決壊したためでした。次が宮城県で19名。丸森町で阿武隈川支流の破堤や土砂災害が多発しました。余談になりますが、この台風19号の被害の大きさが、現在進められている「流域治水」への方針転換のきっかけになりました。(当ブログ2021年8月6日「流域治水の背景」)宮城県では丸森町で阿武隈川支流の内川、五福谷川などの改修工事、大郷町の吉田川の改修工事が現在も続いています。

 千曲川では犀川と合流する長野市で堤防が決壊し、長野市から千曲市、中野市、飯山市にわたって氾濫しました。新幹線車両基地が水没したニュースで有名になった、長野市刈穂地区が決壊地点でした。この水害で長野県では災害関連死も含め15名が亡くなっています。一方下流の新潟県では、被害はあったものの死亡者は出ていません。

           台風19号での千曲川堤防決壊状況

 長野市周辺の水害の地形的要因は、長野・新潟県境付近にある、立ヶ花、戸狩の二つの狭窄部です。下の図は信濃川水系の延長と勾配を表したものです。犀川合流点から飯山盆地の間で勾配が緩くなり、戸狩狭窄部の下流から再び勾配が急になっています。図2は川幅を表したものですが、立ヶ花、戸狩の川幅が極端に狭くなっていることがわかります。

             図1 信濃川河床高縦断図

            図2 信濃川川幅縦断図

 出水時にはこの狭窄部で水の流れが遅くなり、水位が上昇します。このため、狭窄部上流で水とともに流れてきた土砂が堆積し、比較的広い堆積盆地が形成され、勾配が緩くなっているのです。そしてこの狭窄部を抜けると再びストレスなく流れていきます。この地域が下流に対する天然の遊水地機能を果たしていると見ることもできます。

 前回、千曲川と信濃川はその形成史から言っても別の川と言っていいような川である、と書きましたが、水害の歴史を見てもその様相はだいぶ違います。もちろん一続きの川なので上流の水害は下流にも影響するのですが、被害のありようはだいぶ違います。その大きな原因のひとつがこの狭窄部にあります。

 中央山岳地帯や信越国境の山々が大きく隆起したのは、およそ300万年前からとされています。この隆起は現在も続いています。毎日山を見ていてもその高さが変わるわけではないのですが、何万年、何十万年という長い間で見ると変わっています。筑摩山地を抜けて松本から長野に流れる犀川や、この狭窄部を流れる千曲川は、隆起する山地を削り、谷を作り続けています。フォッサマグナ地帯の隆起と沈降という大地の動きが、複雑な地形と、もろい地質の原因になっているのです。

 千曲川の過去の水害の代表例として、善光寺平洪水水位標にあった、1742年の水害と1847年の善光寺平地震を取り上げてみます。


信濃川についていろいろ(2)信濃川の古環境

2024年04月08日

 前回、千曲川―信濃川の流路を概観しましたが、大きい川だからというだけでなく、信濃川は地域によってその性格が大きく変わっています。千曲川、犀川、(新潟の)信濃川という三つの川に分けて考えた方がいいくらいです。実はそもそもこの三つの川は別々の川で、ひとつの川になったのは40~50万年前であり、それまでは別々に日本海に流れていたと考えられています。

                信濃川の古環境の変遷

    「越後平野のルーツを探る~信濃川がつくった越後平野~」信州大学教授赤羽貞幸氏 より編集

 300万年前から200万年前まで、新潟県の海岸は大きく内陸に入り込み、頚城丘陵が隆起を始める前までは、長野市付近まで海であったと考えられています。高瀬川は北アルプス白馬連山の麓、青木湖を源流としていますが、西頸城山地付近が隆起する前は、梓川、奈良井川と合流して白馬村付近で日本海に出ていたと考えられています。同様に千曲川も長野市付近で日本海に流出していました。まだその頃は、信濃川はなかったのです。

 日本列島が大きく隆起し始めるのはおよそ300万年前からです。飛騨山脈などの中央山岳地帯も大きく隆起し、大量の土砂、砂礫を麓の盆地に供給し、松本盆地、長野盆地は沈降して土砂の受け皿となりました。長野盆地では地下800m近くまで砂礫が溜まっていることがわかっています。

 信越国境の山々、西頸城山地、関田山地の隆起と妙高山、新潟焼山などの火山活動によって日本海への流路を絶たれた犀川は、松本盆地、長野盆地、飯山盆地という沈降地帯をつなぎながら千曲川と合流し、東へと流れを変えていきました。そして津南―十日町―小千谷という流路から日本海に出る古信濃川ができたと考えられます。

 では、信濃川下流域はどうだったのか。現在の越後平野が姿を現したのはわずか数千年前です。それ以前は氷期―間氷期の海水準変動に規定されながら、ほぼ広い海から入江でした。そして古信濃川が運ぶ大量の土砂が埋め立てていきました。

 およそ2万年前の最終氷期の頃は、世界的に海水面が今よりも100m以上低く、新潟でも海岸線ははるか沖合にありました。氷期が終わり温暖になると、海水面が上昇し、約7,000年前には新潟平野の海岸よりの大部分は海面下となりました。その後、海岸線に沿って細長い砂州ができ、その内側は潟湖となりました。

         約6000年前の新潟平野(防災科学技術研究所より)

新潟平野沿岸だけでなく、柏崎にも大きな砂丘があります。また、山陰地方や東北地方でも、日本海側の大きな河口がある平野では砂丘の発達が見られます。これは河川が運んだ砂が、特に冬期の北西からの風波によって打ち上げられできあがったものです。新潟平野では信濃川、阿賀野川からの大量の土砂によって大規模な砂丘が形成されました。

 この砂丘が河川の出口を閉塞し、平野部には湛水域が広がり、広大な沼沢地となったのです。福島潟や鳥屋野潟は、この沼沢地の名残です。広大な新潟平野の沼沢地が、現在の稲作地帯に変わっていくのは、阿賀野川の河口の変更や信濃川の分水の掘削が行われた江戸時代末期から明治以降のことになります。

 ところで新潟県を東西に移動すると、なんども山地と平地をくりかえし横断します。新潟の地形は大きく東側から見て、越後山地、魚野川―六日町盆地、魚沼丘陵、信濃川―十日町盆地、東頸城丘陵と、東北―南西方向に軸を持った盆地と山地・丘陵が繰り返し現れます。これは北西―南東方向の圧縮応力場に置かれた新潟地域が、活断層と活褶曲によって波状の地形になっているからです。下の図は新潟平野の断面図です。角田山地や魚沼丘陵で地上に見える地層は、向斜部(地層が下にむかって曲がっている部分)である十日町盆地では地下2,000mにあります。

               新潟平野の断面図

       新潟平野周辺の陰影起伏図(地理院地図を編集)

 新潟市から蒲原郡の越後平野はこの十日町盆地の延長上にある向斜軸に相当しており、この活褶曲活動は現在も継続しています。すなわち現在も沈降を続けているのです。

 平野―山地の境界に活断層があるのは一般的ですが、これだけ活褶曲があるのは新潟地方だけかもしれません。それは堆積層が新しく変形しやすいからと考えられます。そして大量の土砂を供給できる上流部があるからでもあります。この2つの条件をフォッサマグナ地域が満足しているのです。

 このような地形・地質的条件の下で、現在の信濃川がどのようになっているのか、上流部(長野県側)と下流部(新潟県側)に分けてみていきたいと思います。


信濃川についていろいろ(1)信濃川とフォッサマグナ

2024年03月18日

 日本の東西で文化や言葉が大きく違っています。例えばお正月用の塩魚は、東では鮭、西ではブリが使われます。新潟でも、下越村上では鮭ですが、佐渡から西はブリ、長野でも東北信濃では塩鮭、伊那、木曽地方は塩ブリ。肉ジャガは東では豚肉、西では牛肉。正月の雑煮は西では丸餅、東は角餅だそうです。言葉も新潟市あたりまでは東北弁に近い感じがしますが、糸魚川まで行くとなんとなく関西弁に近くなり、富山では明らかに関西の言葉になります。

 こうした言葉や文化の境界が糸魚川―静岡構造線付近にあるとよく言われます。この説にどれだけ説得力があるかよく分かりませんが、こと地質についてはフォッサマグナが東西日本を分ける境界であることは間違いありません。

 今回から信濃川について何回かにわたって書いていきますが、信濃川について考えるとき、フォッサマグナについて触れないわけにはいきません。信濃川の流域はフォッサマグナ北部に重なり、その特徴はフォッサマグナに規定されているからです。

 フォッサマグナとは、下図に示すように、本州中央部を南北に横断する細長い地帯です。その西縁は糸魚川―静岡構造線ですが、東の縁については諸説ありまだ決着がついていません。しかし、概ね越後平野と越後山脈の境界から、関東では利根川沿いに千葉方面につながっていると考えられています。

            フォッサマグナ位置図

 フォッサマグナが東西日本の地質的境界と呼ばれるわけは、その西側にある飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈(中央山岳地帯)と、東側にある越後山脈から八溝山地が中~古生代の古い地層からできているのに対し、フォッサマグナが新生代、特に中新世以降の新しい時代の堆積物と火山噴出物でできているからです。その堆積層の厚さは6,000mを越えると想定されています。フォッサマグナによってその東西の地質が分断されているのです。

           フォッサマグナの断面図

 フォッサマグナは、日本列島の形成と密接に結びついています。日本列島はおよそ2,000万年前にユーラシア大陸から別れ、約1,500万年前に現在の位置に移動してきました。その時西日本と東日本は分裂し、西日本は時計回りに、東日本は反時計回りに回転しながら移動し、その間には深い海が生まれました。その海を陸地から流入する土砂と、海底火山の噴出物が埋めていきました。

 一方移動を終えた日本列島には、これも拡大を終えたばかりのフィリピン海プレートが沈み込みを開始しました(日本列島の移動とフィリピン海プレート=四国海盆の拡大も密接に結びついていると考えられていますが、これに触れ始めると際限なく長くなるので、この話は省略します)。フィリピン海プレート上の伊豆・小笠原諸島も移動しますが、軽い地殻でできた島は沈み込むことができず、日本列島に衝突、付加していきました。これが富士山の南にある御坂山地、丹沢山地、伊豆半島です。伊豆半島が日本列島に衝突したのはおよそ100万年前と考えられています。これらの衝突した伊豆諸島とその周辺に堆積した地層が南部フォッサマグナになりました。

 フォッサマグナ地域にはその中央部に南から富士山、八ヶ岳、北に妙高山、新潟焼山などの火山と、その間に筑摩山地があり、東西に分けられます。この中央山地の隆起はおよそ300万年前から始まりましたが、南からの伊豆諸島の衝突と、東からの太平洋プレートによる圧力によるものと考えられています。

 さて、では改めて信濃川の流路と流域を見ていきましょう。信濃川は長野県では千曲川、新潟県では信濃の国から流れてくるので信濃川と呼ばれます。

         信濃川流路図(国土地理院地図を編集)

 千曲川本流は山梨(甲斐)、埼玉(武蔵)、長野(信濃)三県の県境にある甲武信ケ岳を源流部として、八ヶ岳、浅間山などからの支流を集めながら佐久盆地、上田盆地を北流して、長野盆地(善光寺平)で大支流の犀川に合流します。

 北アルプスを源流とする高瀬川、梓川と中央アルプス木曽駒ケ岳を源流とする奈良井川が松本盆地で合流し犀川となります(実は犀川の方が千曲川よりも流域面積、流路長ともに大きいのです)。高瀬川、梓川はまさに糸魚川―静岡構造線上を流路としています。松本盆地から筑摩山地を横断した犀川と長野盆地で合流した千曲川は、中野―飯山盆地を通って新潟県境の津南町に抜けますが、その間に中野市立ヶ花、飯山市戸狩の二つの狭窄部を通過します。この二つの地点が地形的に水害の要因になっています。

 新潟県に入り名前を信濃川に変えて、十日町盆地を北東方向に流れ、越後川口で谷川岳を源流とする魚野川と合流します。その後小千谷から長岡で扇状地を作り、越後平野を北流し新潟市で日本海に至ります。越後平野では人工的な大河津分水、関谷分水で日本海に分流しています。大河津分水から下流を信濃川下流域と呼びます。