新潟県の信濃川水害の記録を見ていると、気の毒になってしまうほどです。記録のはっきりしている1700年頃代から見ると、毎年のように「××で破堤、田畑の被害何万石」という記録が残っています。長岡藩、新発田藩、幕府代官所は人命の救助と食料の確保に右往左往していた様子がうかがえます。数多くの水害のなかでも、近世から近代最大で、信濃川=越後平野の水害の典型例が、明治29年7月22日に発生した大洪水「横田切れ」です。
「横田切れ」は西蒲原郡横田村(現在の燕市横田地区)において、信濃川の堤防が約300mにわたって決壊し、信濃川下流部が広範囲にわたって浸水した氾濫被害です。下は浸水範囲を示した地図です。被害面積180km2、床下床上浸水4万3600戸、流失家屋2万5000戸、死者75名という被害でした。この浸水は長期間に及び、低い土地では12月まで水没していたそうです。影響は浸水にとどまらず、衛生状態の悪化により伝染病が蔓延しました。

横田切れの破堤位置と浸水範囲
下の航空写真は新潟市亀田地区周辺の土地の高低を表したものです。青い地域は日本海の平均海面より低く、鳥屋野潟は海抜マイナス2.5mとなっています。新潟平野は、現在でいえば茨城県の霞ケ浦や北海道のサロマ湖のような潟湖(せきこ)を信濃川や阿賀野川が運んだ土砂が埋め立てて造った平野です。そして構造運動によって現在でも沈降が続く、十日町盆地から連続する向斜軸に相当しています。低平であり、排水条件が極めて悪い沼沢地でした。したがって、信濃川の度重なる氾濫は新潟平野の形成史から見て宿命といえるものです。

新田の開発は通常いかに水を引いてくるのかで苦労しますが、新潟平野ではいかに水を排除するのかが課題となりました。まず問題になるのが、川が海に出るのを邪魔している砂丘の存在です。正保4年(1647年)に描かれた絵地図を見ると、信濃川、阿賀野川、加治川はすべて合流して新潟の河口から日本海に流出していました。そのために排水されない水は多くの沼地に集中します。現在もある鳥屋野潟、福島潟、紫雲寺潟などはその名残です。

新潟平野では、排水路を掘削し、その土砂で沼を埋め立て、新田を開拓する作業を、各藩と農民が営々と続けていました。しかし泥に浸かって稲を育てても、連年の水害によって3年に1度しか収穫できない、さらに5年に一度は大洪水と言われる状態が続きます。
これを変化させたのが、1730年の阿賀野川の分流です。これは半ば偶然に起きた事態でした。もともとは紫雲寺潟の干拓のために新発田藩が阿賀野川のショートカットを計画し、幕府に願い出たものですが、新潟港の水深が浅くなることを恐れた新潟の町民が反対します。そのため、増水時だけ水を日本海に流す予定で砂丘を掘削したのですが、翌年の雪解け洪水によって破壊され、幅270mの本流になってしまったのです。これが現在に続く阿賀野川河口です。この阿賀野川分流により、阿賀野川旧流路付近は土地が干され、大幅な新田開発が可能になりました。
下の写真は昭和の時代まで続いていた新潟平野での農作業の様子です。泥田で腰までつかりながら田植えをし、刈り取った稲を船で運んでいることがわかります。司馬遼太郎は「街道をゆく―潟の道」で、こうした農作業の記録映画を見て次のように書いています。


「食を得るというただ一つの目的のためにこれほど激しく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くり返すという生産は、世界でも類がないのではないか」
阿賀野川の分流以降も、新潟平野全体の湛水状況はさほど変わらず、厳しい環境が続きました。また、洪水被害の頻発も変わりませんでした。こうした状況を脱し、安定した農業と生活を築くためには、信濃川を分流して日本海に流す必要がある、という認識は早くからありました。しかし、新発田藩、長岡藩、幕府天領が混在し治水事業がそれぞれの思惑で対立するという状況があり、また村落同士の水利権をめぐる対立、新潟町民の信濃川の水深が浅くなると新潟港の機能が失われることへの反対が根強く、大きな新川の開削には至りませんでした。
これを変えたのが最初に述べた「横田切れ」の大水害です。この水害により、ついに政府は「大河津分水工事」の実施を決定したのです。