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北上川についていろいろ(4)北上川下流の流路のなぞ

2020年09月15日

 ある石巻市民の方が「おらほの川が北上川なので、旧北上川という呼び方はやめてほしい」と東北地方整備局北上川下流河川事務所の所長に言っているのを聞いたことがあります(所長は苦笑いしていました)。

 北上川、旧北上川、新北上川、迫川、旧迫川、江合川、新江合川と北上川下流域は、江戸時代からの改修に次ぐ改修で新旧の流路が入り乱れ、何が何だかよくわからない状態です。 

 まず、そもそも北上川本流の河口はどこにあったのか。「明治以前大日本土木史」によると、北上川は佐沼の南から今の迫川を通り、飯野川から追波湾に抜けていたとしています。下に示す「貞山・北上・東名運河事典」の「慶長9年までの流路」はこれに基づいていると思われます。

            慶長以前の北上川流路

   「貞山・北上・東名運河事典」ホームページより(以下同じ)

 一方で石巻市河口付近のボーリングデータによる断面図を見ると、旧北上川付近と定川付近に深度約80mの二つの深い埋没谷が見られます。石巻市と東松島市の境を流れる定川は、現在はほんの小河川ですが、改修工事前の江合川本流であり、定川は江合川の名残川です。

 埋没谷は、今より100m以上海面が低かった氷河期に河川が作った谷が、氷河期終了(約1万年前)以降に川が運んだ土砂で埋められたものです。これだけ深い埋没谷があることから、古い時代から北上川本流、あるいは分岐した川でも相当の水量のある川がここにあったと考えるのが自然でしょう。先の流路図のような小河川とは考えにくいところです。石巻市民の意見ももっともです。

 一方、阿子島(1968)は「追波川沿いに最大-95m以下の埋没谷が認められ、北上川は石巻港へ注ぐ旧北上川沿いの流路とともに追波湾に注ぐ、新北上川~追波川の二つの流路が存在した」と述べています。

 狐禅寺の狭窄部を抜けた北上川が、人の手が加わる前にどこを流れていたのか、実はよくわかっていません。北上川下流域は非常に勾配の緩い土地なので、大出水のたびに流路を変え、広大な遊水池帯となっていたと考えられます。北上川、迫川、江合川、鳴瀬川はくっついたり離れたりをくり返していたのではないでしょうか。

 北上川だけでなく、利根川や信濃川などの大河川の下流域の平野部は、自然状態では「水腐れ地」と呼ばれる排水の悪い、葦が繁茂する低地が大きな面積を占めていました。水質が悪く飲料水を得ることも難しく、耕作にも不適な土地です。江戸時代以来、瀬替え、分離、分水などの河川工事を行ってきたのは、こうした土地を常習的湛水被害から守り、開墾を可能にし、交通路を確保することを目的としていました。

 伊達政宗の統治以来現在まで北上川下流域の流路の改修が行われてきたのですが、その過程を見ていきたいと思います。

 流路の変遷は諸説あるのですが、現在一般的に認められている明治以前の流路は次のとおりです(これも諸説あります)。

①慶長以前:狐禅寺狭窄部を抜けた北上川は、現在の登米市中田町浅水付近で分流し(分流していなかったという説もあります)、登米市吉田付近で迫川に合流していた。つまり、迫川の流路が北上川本流であったと考えられる。

②慶長年間(1606年~)伊達政宗は、領地開発(新田開発と水運の確保)のため、登米城主伊達宗直に命じ、北上川を浅水で締め切り、東和町米谷に大きく湾曲させる相模土手を築き、二股川に付け替えた。これで米谷-柳津-飯野川-追波川という流路になった。

           伊達宗直による改修工事後

③柳津-飯野川の流路は河道が狭く急流になり船の運航にたえなかった。また、洪水の被害も頻発した。このため政宗は川村孫兵衛に命じ、柳津で流路を締め切り西側の迫川に再度合流させるとともに、江合川を和渕で北上川に合流させ、石巻に導いた。これにより、石巻は北上川、迫川、江合川の全流域の経済圏の中心となり繁栄を迎えた。

           川村孫兵衛による改修工事後

 しかし、「これでめでたしめでたし」とはなりませんでした。続きは次回。