能登半島地震の復興工事のボーリング調査に、当社でも2~3チームが行っていました。6月に現地の安全パトロールを兼ねて視察に行ってきました。いつもは能越道で七尾に行き、能登里山海道か一般道で現場に行くのですが、工事通行止めのため氷見北インターで下ろされました。
どこを通っていくと早いのかわからないので、車のナビの通りに走って行ったのですが、だんだん道は狭い急坂になり、本当にこの道でいいのか不安に思っていると、峠を越えさらに急坂になってしまいます。いったん車を止めてナビを拡大すると、国道が近くにあります。まあこれなら大丈夫だろうと下りていくと、突然平野がひらけ中能登町に出ました。あとで道路地図を確認すると、荒山峠を越えて邑知潟(おうちがた)平野に出たことがわかりました。

氷見北ICから中能登町まで通ったルート
羽咋市のある邑知潟平野から七尾湾までの低地は、国道159号線(七尾街道)やJR七尾線が北東-南西方向にほぼまっすぐに伸び、さらに七尾南湾に続いています。能登半島はこのまっすぐな平野によって南北に分かれています。北側の山地は先端の珠洲岬から宝立山、鉢伏山、河内岳と続き能登金剛の断崖で終わります。最高地点は鉢伏山の543mで、全体的に穏やかな山容ですが、日本海に面した北側、西側の海岸は急崖の岩石海岸が続いています。

能登半島の地形図
邑知潟平野を挟んだ南側の山地は、七尾市の観音崎を北端にして七尾城のある城山、石動山(564m)、宝達山(637m)と続き、倶利伽羅峠を越えると金沢平野に至ります。こちらも石動山、宝達山(能登半島の最高峰)がピークをなしていますが、穏やかな山容であることは北側山地と変わりません。
南北両側の山地に挟まれた直線的な平野―活断層の存在を連想させる地形です。政府地震本部のホームページで確認すると、邑知潟断層帯がありました。引用すると、
・邑知潟断層帯は石川県七尾市から鹿島郡中能登町、羽咋(はくい)市、羽咋郡宝達志水町を経て、かほく市に至る断層帯です。全体の長さは44kmで、ほぼ北東-南西方向にのびています。本断層帯は断層の南東側(山側)が北西側(平野側)に対して相対的に隆起する逆断層です。
そして将来に地震発生の可能性として
・地震の規模:M7.6程度(全体が動いた場合)
・地震の発生確率:30年以内に2%
・平均活動間隔:1,200年~1,900年
・最新の活動時期:約3,200年前から9世紀
としています。最新活動期の幅が広い(つまりいつ最後に活動したかよく分かっていない)ので、発生確率の信頼性は低いのですが、今後30年間で発生する確率がやや高いグループに属している、とされています。

石川県付近の断層帯の分布(政府地震本部より引用)
石川県の活断層を調べてみると、これ以外にも邑知潟断層帯の延長に金沢平野に続く森本・富樫断層帯、富山との境にある砺波平野・呉羽山断層帯があり、さらに南には庄川断層帯、牛首断層、跡津川断層などの大物の断層帯が控えています。昨年の能登半島地震は能登半島北部の海岸に沿った断層帯が動いたことがわかっていますが、それ以外にも能登半島とその周辺には大きな活断層があったのです。
ところでまた地形の話に戻るのですが、日本海へ流れ出す川と富山湾に流れ出す川(大きく言えばどちらも日本海ですが)の分水嶺は宝達山山地から倶利伽羅峠を経てさらに南に続いています。富山平野と金沢平野を分ける医王山(938.4m)山塊から徐々に標高を上げ、五箇山の西にある多子津山(1,311m)、奈良岳(1644m)、白川郷の西にある三方岩岳(1,736m)と続き、山容もどんどん険しくなっていきます。そして濃越県境(石川県と岐阜県の県境)の最高峰、白山(2,702m)に至ります。
荒山峠の分水嶺が白山まで続いていることは、今回地形図を追いかけて初めて気づきました。

石川県では今年の5月7日、県内で起こる新たな地震被害の想定をまとめ、発表しました。ここでは特に金沢市に近い森本・富樫断層帯を想定しています。そして防災対策について「不断の見直し」を行っていくと述べています。
活断層がいつ動くのか=地震がいつ発生するのかを確実に予想することは現在ではできません。なにしろ陸域の活断層の活動間隔は、数千年から長いものでは数万年です。森本・富樫断層帯の平均活動間隔は1,700年から2,200年程度、最新活動時期は2,000年から1,600年前くらいと評価されています。なるほどそろそろ動いてもおかしくないけれど、幅が数百年単位では、なかなか難しいところです。とはいえ、いつかは必ず動きます。いつ起きても対応できるように心づもりしておきましょう、というのが県の発表の意図だと思います。
これらの活断層が動く原因は太平洋プレートがユーラシアプレートを押し続けていることです。それはまた日本列島の隆起の原因でもあります。白山のある両白山地は中央山岳地帯とともに、第四紀の隆起量の大きい場所です。断層活動は地震を起こすだけでなく、山を隆起させ、美しい山岳景観を作る活動でもあります。
地球は別に人を苦しめようと思って地震を起こすわけではありません。また、絶景を作って楽しませようと思うわけでもありません。地殻は人の思惑とは無関係に動いています。それをどう受け止めるかは人の都合です。能登から白山への分水嶺を追いかけながらそんなことを考えました。

白山(標高2,702m)
8月8日(金)9:30~11:30に、仙台市旭ヶ丘市民センターで、社員、協力会社に加え、元請けの大日本ダイヤコンサルタント株式会社様、株式会社東北開発コンサルタント様にもご参加いただき、39名の参加者で令和7年度の安全大会を行いました。
今年の安全大会は、熊の被害を防ぐための講演と熱中症についてのグループワークを中心に行いました。
熊による被害は直近でも知床半島で登山者の死亡事故がありましたし、6月には福島県で環境調査員2名が熊に襲われてケガをする業務災害が発生しています。私たちも山に入って作業することが多く、実際にクマを見かけることもあります。今後熊との接触による災害を防ぐため、(株)地域環境計画野生生物管理部の小野晋様による「クマ・イノシシ・ハチの生態を正しく学び被害を未然に防ごう」と題した講演を受けました。
小野様からクマの生態や食性、出会った時の対処方法について説明されました。さらにイノシシ、蜂の生態、攻撃されないための工夫、注意点についても詳しい説明がありました。
今年の夏も昨年以上の強烈な暑さが続いています。幸い今のところ当社では熱中症の発生はありませんが、ニュースでも熱中症による死亡例が報道されています。今年の6月1日に改正労働安全規則が施行され、「職場における熱中症対策の強化」が厚生労働省から指示されています。令和4年以降熱中症による労働死亡災害が30件を超えていることがこの背景にあります。今回の指示では会社としての熱中症対策の手順や連絡体制を確立することが求められています。
グループワークの中では、それぞれの立場から、現場においてどのような熱中症対策を行うのかを討議し、各グループからその結果を報告しました。短い時間ではありましたが、集中した討議ができたと感じました。
気候の変動や地域環境の変化により、私たちの労働環境も厳しいものになってきています。今回の安全大会の講演や討議をもとに、より安全意識を高め、無事故・無災害で作業を進められるよう、社員・協力会社・元請け会社ともに協力して頑張っていきたいと思います。

後村代表取締役社長の挨拶

(株)地域環境計画 小野晋様の講演

安全大会でのグループワーク

グループワークでの討議の様子
倉庫で保護した子猫
6月の中頃から1ヶ月ほど、左手を包帯で巻いていたのですが、会う人会う人みんなから「どうしたの?」と聞かれました。「手を挟んだの?」とか「労災かい?」とかいろいろ聞かれて、「話せば長いことなんだけれど・・まあ、要するに猫に嚙まれたんだよ」と返事をしていました。ことの顛末を説明します。
昨年末から資材倉庫に猫が住み着いてしまいました。メスの茶トラ猫です。若い社員たちがかわいいからと、餌をあげるようになりすっかり居ついてしまったのです。困ったなあ、と思っていました。餌をあげるなら責任を取らなければならなくなるよ、と言ったのですが、みんな「馬耳東風」。年末年始も代わるがわる倉庫に行って面倒を見ていたようです。
暖かくなり、案の定猫のおなかが大きくなってきました。困ったぞ、まさか子猫を七北田川に投げるわけにはいかない、さてどうする、と相談はするもののなかなか結論が出ません。みんな気にしてゴールデンウィーク中も倉庫に行って様子を見ていたのですが、連休明けに4匹の子猫が生まれました。
4匹とも元気にミャーミャー鳴いています。かわいいもんですから「今日はあそこにいたよ」とかみんなで話しています。ボーリングマシンの下にいたり、機材の棚の下にいたり、母猫が安全な場所に動かしているようです。しだいに元気に動き回るようになり、とうとうトラックの荷台にいるところが発見されました。
これはまずい、気が付かずに現場まで連れて行ってしまうかもしれない。トラックの下にいるところをひいてしまうかもしれない。というわけで、猫ちゃん対策委員会を発足し、対策を協議しました。結論は以下のとおり。
1.母猫は捕獲器で捕まえ、避妊させる。
2.母猫の後に子猫も捕獲し、引き取り手を探す。
3.母猫も引き取り手を探すが、もし見つからない場合は、倉庫で地域猫として面倒を見る。
4.捕獲するのは子猫が乳離れする6月中旬とする。
子猫はかわいいので引き取り手は見つかりやすいと思いましたが、母猫は見つかるかどうか不安でした。社員に子猫の引き取り手の募集をかけたら、3人が手を上げてくれました。よしよし、何とかなりそうだなと、捕獲実行日に向けて手配を進めました。
6月12日、仙台市の動物管理センターから借りた捕獲器を設置すると、あっという間に母猫が入り、子猫も次々に捕まえることができました。動物管理センターの担当者の方から捕獲する2日前からは餌をあげないように、とアドバイスを受けていたのが効いたようです。
子猫は事務所に連れてきて、大きめの段ボールに入れて離乳食をあげ、ウンコ、シッコを取ってあげて引き取り手に渡すまで面倒をみました。早い子は当日、遅い子も15日には引き取られていきました。最初は4匹で固まっていたのですが、だんだん兄弟が少なくなり、最後の子は引き取られるまで寂しそうでした。とにかく人が近くにいればミャーミャー鳴いて「かまえ、かまえ」とせがむので大変です。
さて、母猫です。動物病院に避妊手術と猫エイズの検査を予約していたので、捕獲器からキャリーバックに入れ替え、動物病院に運ぶ予定でしたが、ここで問題発生。キャリーバックの中でウンコをして暴れてウンコまみれになってしまったのです。これでは動物病院に連れていけない。予約の時間は迫ってくるし、とにかく水をかけて洗おうと、キャリーバックから引っ張り出してホースで水をかけてガシガシと洗いました。ところが野良猫、そう簡単に洗わせてくれません。フンギャー!!と暴れて押さえつけた手にがぶがぶと嚙みついてきました。
ここで手を離したら二度と捕まらない、と思っているのでこちらも離しません。皮手袋のうえから噛みついてくる牙に耐えながら、二人がかりで洗い終えて、タオルで水を拭き取り、改めて洗ったキャリーバックの中に押し込んで動物病院まで連れていきました。
動物病院に母猫を預けて、速攻で治療のために外科に行きました。腰痛で行きつけの病院なのですが、「野良猫に手を出しちゃダメだよ」と先生に説教され、「そういうわけにはいかなかったんです」と説明し、薬を塗って包帯され、抗生物質を処方され「毎日治療に来なさい」と念を押されました。
母猫は手術と検査を終え、倉庫でケージに入って引き取り手が決まるのを待っていましたが、引き取りたいという人が社員の知り合いにいて、1週間ほどして倉庫から出ていきました。ずっと面倒を見てくれた社員はちょっと寂しそうでした。
以上が今回の猫騒動の顛末です。私の手の治療もようやく終わり、包帯が取れました。子猫たちはそれぞれ、マロ、ボタン、ヒナコと名付けられ(1匹は名前不明)すっかりそれぞれの家庭に慣れたようです。ボタンちゃんを引き取った家では、最初お父さんが猫を飼うことに頑強に反対していましたが、すでにメロメロ状態だそうです。子猫の可愛さは破壊的です。母猫もだいぶ慣れ、触らせてくれるようになってきたと聞いています。
何とか猫たちを保護することができて本当に良かった、と思っています。給餌や捕獲に協力してくれた皆さん、また、家族として引き取ってくれた皆さん、ありがとうございました。
去る6月14日におこなわれた弊社第56期株主総会および取締役会において、代表者交代が決定いたしましたのでお知らせします。
前代表取締役熊谷広は退任し、取締役会長に就任しました。前取締役後村和貴が代表取締役社長に、同じく前取締役山田恵寿が代表取締役副社長に就任いたしました。
新たな体制で会社運営を進めてまいりますが、顧客の皆様におかれましては、前任の熊谷同様にご指導、ご鞭撻を賜りますようお願いいたします。
北海道の開拓は、1969年(明治2年)に、「蝦夷地」を「北海道」と名前を改め、開拓使を設置したことに始まります。戊辰戦を終え、開国したばかりの明治日本は、何よりも欧米諸国に対抗するため、産業を育成し、軍事力を強化する「富国強兵」をめざしました。豊富な天然資源と広い土地を持つ北海道の開拓は明治 日本の最重要課題のひとつでした。
開拓の最大の目標は稲作の実現でした。明治8年から始まった「屯田兵」制度による集団移住により、農地 開拓が進み、明治20年代には開拓地は石狩川を遡るように上流へと拡大していきます。
最初に述べた「新十津川物語」の主人公が北海道に渡ったのがちょうどこの時代にあたります。そして、開拓が順調に進み始めたと見えたころに襲ったのが明治31年水害です。これは明治以降現在に至るまで北海道最大の水害で、死者112名、被災家屋18,600戸、氾濫面積1,500km2となりました。

明治31年水害の氾濫範囲
政府は北海道治水調査会を設置して対策を始めますが、さらに明治37年にも台風により被災家屋16,00戸、氾濫面積1,300km2の被害が出ます。明治43年に石狩川治水事務所が設置され、同じ年に始まった北海道第一期拓殖計画と連携して、本格的な石狩川改修工事が始まるのですが、ここで改修工事の方針をめぐって対立がありました。
石狩川治水事務所の初代所長に就任した岡崎文吉は、自然に出来上がった河川の流路を保存し、治水上必要な箇所だけを改修するという方針で臨みました。自然河川を極力生かした河川改修を行い、放水路を新たに作るというものです。この方針は現在の河川整備の先駆をなすものでしたが、財政難でなかなか進みませんでした。
大正6年、当時の日本の土木事業をリードしていた内務省技官沖野忠雄は、この岡崎案を批判します。蛇行をショートカットする捷水路(しょうすいろ)工事を行い、流下能力を上げ、速やかに洪水流を海に排出する方法を提案したのです。岡崎・沖野の論争は沖野の勝利に終わり、これ以降一貫として捷水路方式で工事は進んでいきます。
第一期工事〈明治43年~昭和8年〉では、札幌市、深川市、滝川市の市街地における堤防工事、河口~江別間の捷水路工事、夕張川の石狩川への切り替え工事などが行われました。大正7年から昭和44年まで続いた改修工事により、最終的には深川から河口まで、それまでの231.7kmから131.4kmと、約100kmも流路が短縮されたことになります。
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石狩川本流と旧河川跡・三日月湖群(国土交通省国土保全部ホームページより)
結果的には沖野案によるショートカット工法によって、流下能力が高まり、洪水氾濫が抑えられ、水位が低下したことにより泥炭地の開発も進みました。しかし岡崎案にも理はあったのです。
河川は一定の河床勾配を必要とし、それを獲得するまでは蛇行を強めます。アメリカのミシシッピ川の改修では、19世紀から20世紀半ばまでで捷水路工事を行い、実に360kmも短縮しましたが、かなりの範囲で新たに蛇行をはじめ、ある時期にはほぼ元に戻ってしまったという事例もあります。それを抑えるには、床固や護岸の強化を行い、河岸崩壊を抑える新たな工事が必要になります。また、現在では河川環境の立場から岡崎の「自然主義」も見直されています。「多自然川作り」という考え方です。人工的な護岸だけでなく、多様な生物が生き付く環境整備、景観が求められてきています。
それはともかく、捷水路工法によって石狩川の治水上の安全性は大きく高まり、周辺の開発は大きく進みました。とはいえ、これで石狩川の水害がなくなったわけではありません。北海道では西南日本のような猛烈な豪雨による水害は少ないのですが、それでも数年に一度は勢力を保った台風が到来することがありました。昭和56年8月水害では死者2名、被災家屋22,500戸、氾濫面積614km2の水害が発生しました。
記憶に新しい水害が平成28年(2016年)の台風10号です。気象庁が統計を取り始めて初めて東北地方太平洋側に上陸した台風で、岩手県、北海道で大きな被害となりました。北海道では伊達市で一時間雨量70mm、上士幌町で72時間雨量351mmと、北海道としては記録的な大雨となり、死者・行方不明者4名、南富良野町で空知川の堤防が決壊して市街地が浸水、その他帯広市、芽室町で氾濫被害が出ました。農産物の被害も大きく、ポテトチップスが発売停止になったことを覚えている方も多いと思います。

平成28年9月10日南富良野町・空知川の氾濫(国土地理院撮影)
北海道には梅雨がないと言われてきましたが、最近では梅雨前線が北海道まで北上することが普通になってきています。台風もこれまでのように熱帯低気圧になって足早にオホーツク海に抜けるのではなく、勢力を保ったまま通過することが増えています。北海道に限った話ではないのですが、温暖化による豪雨災害の激甚化の影響が及んできているのです。
北海道の開拓と発展は水害や火山活動などによる自然災害との戦いでもありました。それでも北海道は日本の他の地方に比べると、人の手の入ることが少ない自然が保存されてきました。雄大な自然景観が北海道の大きな魅力でもあります。この北海道の豊かな自然を守りながら、新たな治水対策が進められていくことを北海道民のみならず、多くの国民が願っていると思います。
この項の主な参考文献
・木村学、宮坂省吾、亀田純著「揺れ動く大地・プレートと北海道」
・北海道開発局 札幌開発建設部「石狩川治水100年」
・川村たかし著「新十津川物語」