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地震と活断層について(2)プレート境界型地震

2021年10月20日

 地震がなぜ起きるのかについて、古来さまざまな説がありました。地下の大ナマズが暴れるという空想は別にしても、科学的に見えるような説として、地下の火山爆発説、石炭・石油の爆発的燃焼説、地下空洞の陥没、地下水が熱せられて生じた蒸気の圧力により岩石が破壊されるという説など、実に多くの説があったそうです。

 アメリカのリード博士は、1906年のサンフランシスコ地震(M8.3)で表れたサンアンドレアス断層のずれから「弾性反発説」を唱えました。また日本でも小藤文次郎博士が、1891年の濃尾地震(M8.0)の観察から「断層地震説」を出しています。これはどちらも、地震時に地表に現れる亀裂、ずれ、すなわち断層こそが地震の正体であるという主張でした。しかし当時はこの断層運動を引き起こす力が何かは不明のままでした。この疑問を解くためには「プレートテクトニクス理論」の登場を待たなければなりませんでした。

 今ではプレートの運動こそが地震の原因であることがわかっています。下図は世界で起きたマグニチュード5以上の地震の発生地点を示したものですが、赤点は見事にプレート収束帯(プレート同士がぶつかっている場所)に集中しています。そして、日本周辺にいかに地震が多いかがわかります。

 下の図は東北地方北部の断面で発生した地震の震源をプロットしたものです。震源がランダムにあるのではなく、ある一定のゾーンにあることがわかります。これを発見した日本の和達清夫(初代気象庁長官)とアメリカのヒューゴー・ベニオフにちなんで「和達・ベニオフゾーン」と呼びますが、このゾーンこそが沈み込んでいるプレートです。そして、プレートの沈み込みが地震を起こしていることを示しています。

 千島海溝および日本海溝の三陸沖から房総半島沖で発生するプレート境界型地震は太平洋プレートと陸側プレートの境界で発生します。また、相模トラフ、南海トラフから日向灘では、フィリピン海プレートと陸側プレートの境界で発生します。特に直近の発生が心配されている南海トラフでの地震は、日本の政治・文化の中心であった京都に近いため、古い時代からの記録が残っています。684年の白鳳地震は日本書紀に、またそれ以降も日本三代実録などに記録が残り、ほぼ同じ地域である一定程度の間隔で起きていることがわかっています。ただ、なぜ東海、東南海、南海の三つのブロックが同時に動いたり分割して動くのかはわかっていません。同じように、三陸沖での大地震も、各ブロックが個別に動く場合と、東北地方太平洋沖地震のようにすべてのブロックが一緒に動く場合がある原因もわかっていません。

 東日本大震災以前の三陸海岸での大津波というと、明治29年の明治三陸津波、昭和8年の昭和三陸津波、昭和35年のチリ地震津波が有名です。チリ地震津波は太平洋の彼方からやってきたものなので別としても、東日本大震災の津波、明治三陸津波、昭和三陸津波の三つは同じプレート境界型地震によるとされていますが、その正体(=発生メカニズム)が相当に違っていることをどれだけの人が知っているでしょうか。

 明治29年6月に起きた明治三陸地震は、M(マグニチュード)8.2~8.5と想定されている地震で津波が発生し、死者・行方不明者21,959人という大災害となりました。この地震はプレート境界で起きたことがわかっていますが、地震の震度は2~3程度で、まったく大地震と感じられませんでした。これはプレート境界で幅50km、長さ210kmの区域が数分間の時間をかけてゆっくりと動いたためと推定されています。震度は小さかったものの、地震そのもののエネルギーは大きく、巨大な津波になったと考えられています。

 昭和8年の昭和三陸地震は、明治三陸津波地震の余震と考えられていますが、M8.0と推定されており、死者・行方不明者は5,773人とこれも大被害を出しています。この地震の発生域は厳密にはプレート境界ではなく、日本海溝の東側、つまり沈み込む前の太平洋プレートの内部で発生しています。海溝に引きずり込まれるプレートが海溝の直前で折れ曲がり、正断層で断ち切られることで発生するアウターライズ型地震であったことがわかっています。

 東日本大震災や明治三陸地震は、固着したプレート境界で上盤の陸側プレートが下盤の太平洋プレートに乗り上げる逆断層型地震でしたが、正断層で発生するプレート境界型地震もあったのです。このようにプレート境界型地震も発生する場所で、プレート境界地震、アウターライズ地震、スラブ内地震と三つに分かれ、発生のメカニズムも違っています。

 同じように日本列島の下に沈み込んでいく海洋プレートですが、太平洋プレートとフィリピン海プレートには大きな違いがあります。それはプレートが出来上がってからの時間です。太平洋プレートは、東太平洋海膨で生まれ、約1億3000万年かかって日本列島まで到達し沈み込んでいきます。一方のフィリピン海プレートは1500万年~3000万年前に生まれた比較的新しいプレートです。このため、古く冷たくなった太平洋プレートは急角度で、まだ温かいフィリピン海プレートは緩い角度で沈み込んでいきます。

 この太平洋プレートとフィリピン海プレートの違いは、東西日本の地質構造の違いや火山フロントの位置などに大きな影響を与えています。同じプレート境界型地震といっても、日本海溝付近で発生する地震と、南海トラフ-日向灘での地震発生メカニズムについても違いがあるのではないかと考えられています。


地震と活断層について(1)東日本大震災の経験から

2021年10月12日

 10年前、2011年3月11日午後2時40分、突然の大きな揺れが東北から東日本一帯を襲いました。東北地方太平洋沖地震の発生です。私はちょうど女川町の現場から事務所に戻ってきたばかりでしたが、「宮城沖地震が来た」と直感しました。それにしても尋常でない揺れの強さと長さに、前回の宮城沖地震はこんなに強く、長かっただろうか、とも感じていました。

 揺れがおさまり、外に出てみると近くの会社、事業所の人たちも、外で呆然と立ち尽くしていました。

 「これは津波が来るな・・」とだれからともなく言葉が出ました。それからは頻発する余震の中で各現場に出ているメンバーと電話連絡を取り、安否の確認を手分けして行いましたが、地震直後にはつながった電話も、間もなく不通となってしまいました。

 安全が確認できたチームはいいのですが、わからないチームは連絡を待つよりありません。翌日の朝、一番心配していた仙台港の埠頭でボーリングをしていたチームが歩いて事務所に帰ってきたときは、安堵の涙が出ました。地震当日は近くのビルに逃げ込み、夜を明かしたそうです。その後も次々に安全が確認され、社員、協力会社に犠牲者、けが人ともいませんでした。ただ、2家族が津波で家を失ってしまいました。

         仙台市荒浜での東日本大震災の大津波

 大津波や火災により、2万2000人余りの人が死亡、行方不明になり、沿岸部の街は津波により破壊され尽くし、福島第一原子力発電所のメルトダウンにより周辺部では人が消え去ってしまいました。10年を経て復旧、復興工事は進みましたが、完全に元の生活に戻ることはできません。沿岸部の町を見ていると、震災直後の破壊しつくされたがれきの山は片づけられ、盛土され、区画整理され、新しい家々も立ち並んできていますが、それぞれの町がもっていた独自の雰囲気や華やかさを取り戻すのは難しいだろうと感じます。

 津波で壊滅的な打撃を受けた女川町の須田善明町長は、女川町の再建について「千年に一度のまちづくり」と述べています。元の町に戻すのではなく、未来を時間軸にして新たに建設するという決意です。女川町に限らず、被災した各市町村の人たちに共通した思いだと思います。

 さて、地震の被害の全貌がしだいに明らかになるとともに、地震の正体も伝えられてきました。東日本大震災は、日本海溝に沈み込む太平洋プレートと上盤のアメリカプレートが、宮城県沖を震源地として三陸沖中部から茨城県沖まで、長さ480Km、幅150Kmの範囲で約10mずれ動いたことにより発生したものでした。そのエネルギーはM(マグニチュード)9.0という巨大なものでした。記録の残っている地震では、1960年チリ地震M9.5、1964年アラスカ沖地震M9.2に次ぐもので、2004年スマトラ沖地震と同規模とされています。

    東北地方太平洋沖地震の震源域と想定されていたブロック

 政府の地震調査研究推進本部は、日本海溝沿いでのプレート境界型地震について、三陸沖北部から茨城県沖まで7つのブロックに分けて、それぞれの地震の規模、発生確率を発表していました。しかし東日本大震災はそのうちの6つのブロックが連動して断層運動を起こしたのです。これについて気象庁は地震当日の記者会見で「三陸沖でこれほどの地震が発生するとは想定していなかった」と述べ、地震調査委員会も「宮城県沖、その東の三陸沖南部海溝寄りから南の茨城県沖まで、個別の領域については地震動や津波について評価していたが、これらすべての領域が連動して発生する地震については想定外であった」と述べています。

 東日本大震災の前に大きな被害が発生した地震に、1995年1月18日の「兵庫県南部地震・阪神淡路大震災」がありました。この震災の経験から、政府地震調査推進本部が作られ、地震について多くの調査・研究が行われました。その結果、地震発生の予知も可能になるのではないかと思われました。しかし、まだまだ地震についてわからないことがたくさんあったのです。今回は、地震と活断層、それにかかわる地質調査について考えてみたいと思います。


弊社社員のインタビュー記事が「ジョブ・スタせんだい」に掲載されました

2021年10月06日

 「まちづくりの過去と将来をつなぐ架け橋 地質調査の現場に迫ってみた」と題したインタビュー記事が「ジョブ・スタせんだい」に掲載されました。

 「ジョブ・スタせんだい」は、公益財団法人仙台市産業振興事業団が行っている、仙台・宮城の就職活動ポータルサイトです。新卒・転職のための仕事情報や、無料就活スペースの提供、就職・転職のための個別無料コンサルティングなどを行っています。弊社でも採用活動の支援を受けております。

 このサイトの中に、さまざまな職場で働いている「企業の先輩インタビュー」という記事があります。今回は技術系の職場で働いている若手社員の声を、就職活動をしている人に届けたい、という趣旨で弊社社員への取材の依頼がありました。

 「できれば現場で作業しているところを」ということでしたので、宮城県内のダムの地質調査現場で、弊社社員佐藤雅浩(入社2年目)と山口拓也(入社1年目)が取材を受けました。

 インタビューでは非常に率直に返答していて、就職活動をされている方にはわかりやすい内容になっていると思います。2人ともまだまだこれから経験を積み、学んでいかなければならない段階ですが、この2人に限らず若い社員は会社の宝です。私たち幹部社員もより一層、彼らの立場、考え方を尊重しながら指導、育成をしなければならないと考えています。

 取材内容は以下のURLからご覧になれますので、ぜひご一読ください。

https://www.siip.city.sendai.jp/jobsta/interview/worker/11258/


「北の国から」と富良野盆地

2021年09月15日

 今年3月24日、俳優の田中邦衛さんが88歳で亡くなりました。田中邦衛さんといえばドラマ「北の国から」の黒板五郎さんです。このドラマは特別編を含めて20年も続き、北海道富良野の大自然の中で、息子(純君―吉岡秀隆さん)と娘(蛍ちゃん―中島朋子さん)の成長を見守る寡黙な父親を演じていました。幼い頃から青春時代にかけての二人の成長と苦悩は本当に身につまされるものがありました。特に別れて去っていく母(石田あゆみさん)の乗った汽車を二人が走って追いかける場面では、泣けて仕方ありませんでした。

 田中邦衛さんが亡くなり、改めてその舞台となった富良野について調べ、感じたことを述べます。

     石狩川流域図(国土交通省水管理国土保全局ホームページより)

 富良野盆地には石狩川の支流・空知川とそのまた支流の富良野川が流れています。(空知川のいかだ下りの場面もありましたね)石狩川は幹線流路長268km(全国第3位)、流域面積14,330m3(全国第2位)の大河川です。大雪山系の石狩岳を源流とし、旭川のある上川盆地に入り、神居古潭の狭窄部を通って石狩平野に出ます。ここで雨竜川、空知川、夕張川などと合流して日本海に注いでいます。

 余談ですが、石狩川は今では日本海に流れていますが、約4万年前の支笏火山の大噴火による大量の火砕流堆積物によって地形が変わる前は、苫小牧付近で太平洋に注いでいたと考えられています。

 石狩川の大支流である空知川は、砂川市で石狩川から分かれ、赤平市、芦別市を通り、空知大滝付近の狭窄部を経て富良野盆地に入ります。さらに富良野市街地付近で空知川と富良野川が別れます。空知川本流は南下して南富良野町を経て、上ホロカメットク山の源流部に至ります。一方富良野川は富良野盆地を北上し、十勝岳の源流部に至ります。

 「北の国から」の舞台となった富良野市麓郷は富良野市街から東に約14km離れた、南富良野連峰の南西山麓にあたります。富良野はこのドラマで全国に知られ、麓郷には五郎さんたちが建てた家がそのまま残り、観光の目玉の一つになっています。

 ところで富良野という地名の語源はアイヌ語の「フラヌイ=臭い水」という意味だそうです。十勝岳から流れてくる硫黄の匂いが原因と言われています。また空知の語源もアイヌ語で「ソラプチ=滝がごちゃごちゃ落ちるところ」という意味で、滝里ダム下流狭窄部にある空知大滝を指しているそうです。空知大滝は滝里ダム建設後に水量が減り、小さな滝にしか見えませんが、かつては空知川最大の難所でした。

 アイヌ民族と鮭の関係は密接であり、空知大滝で鮭の遡上が妨げられたため、富良野盆地にはアイヌ民族は定住していなかったと考えられています。(「富良野百年史」かみふらのの郷土をさぐる会編より)

 富良野の開拓がはじまったのは明治30年(1897年)4月、三重県からの開拓団8名が到着したことに始まりました。富良野盆地北部(富良野川流域)は湿地帯が広がり開拓は思うように進みませんでした。大正6年(1917年)から大正10年(1921年)にかけて、排水溝の掘削と用水路の建設が進み、広大な水田地帯となっていきます。

 開拓が順調に進み始めた大正15年(1926年)5月24日、十勝岳が噴火しました。高温の岩砕なだれが残雪を溶かし、噴火から25分余りで山麓の富良野盆地に泥流が到達し、144名が犠牲となる大災害になりました。これは寒冷地の積雪期に起こる火山噴火の典型的事例と言われています。

 泥流は富良野川の谷を埋め、富良野の低地で氾濫し、泥水の水深は約1mに達しました。ようやく開墾した田畑の多くが酸性の土砂に埋まってしまい、上富良野村では「上富良野を復興すべきか放棄すべきか」という激論が交わされたほどでした。泥土を除去し、客土(きゃくど:他所から土を運び、在来の土の上にのせること)することで農地を再興し、硫黄の影響が薄まり水田が再生したのは昭和8年(1933年)のことで、約7年の歳月を必要としたのでした。

     泥流に覆われた上富良野村(北海道美瑛町ホームページより)

     十勝岳昭和63年噴火(北海道美瑛町ホームページより)

 十勝岳は活発な火山活動を繰り返していて、その後も昭和37年(1962年)、昭和63年から平成元年(1988年から1989年)にも噴火しています。昭和37年の噴火では、硫黄鉱山の宿舎に泊まっていた鉱員5名が吹き飛ばされた石塊の直撃で死亡しています。また昭和63年の噴火では火砕流が発生し、大正15年噴火のような泥流発生が危険視され住民が避難しましたが、幸い死傷者はいませんでした。

 「北の国から」を見ながら「なぜこの家族がこんなに苦労ばっかりしなければならないのか」と作者の倉本聰さんに文句を言いたくなることが何度もありました。しかし、富良野の歴史を見ると、黒板家だけが苦労したわけではありません。北海道開拓の歴史は自然災害との闘いの歴史でもあったのです。

※参考文献「十勝岳1926年噴火と災害の概要」内閣府防災情報


【流域治水】とは何か

2021年08月30日

「流域治水法案(特定都市河川浸水被害対策法等の一部を改正する法案)」は、とにかく長いし、何しろ法律用語で書かれているので、煩雑で分かりにくいです。で、国土交通省が発表している「概要」を紹介します。「概要」とはいえ多岐にわたる内容ですが、次の4点にまとめられています。

1.流域治水の計画・体制の強化

2.氾濫をできるだけ防ぐための対策

3.被害対象を減少させるための対策

4.被害の軽減・早期復旧・復興のための対策

 この4点の要点は次のようにまとめられると思います。

1.これまでの縦割り行政から、住民も含めた一つの流域における関係者が一堂に会した協議会を設立し、その協議の結果を対策計画に反映させること。ここでは、雨水貯留浸透対策、浸水エリアの土地利用の協議などが行われます。

2.堤防等のハード面は引き続き強化する。さらに、国交省・農水省・都道府県・発電会社がそれぞれに管理・運用しているダムを一元的に管理し、利水ダムの事前放流を拡大する。また、雨水の貯留対策、遊水機能を拡充整備する。また霞提の利用も考えられているようです。

3.危険性の高い土地から安全な土地への住居の誘導、移転の促進による土地利用の変更を行う。土地利用の規制、不動産のリスク評価に基づいた保険金の格差の設定などにより、氾濫の危険の高い土地から安全な土地への移動を進める。

4.ハザードマップの拡充や避難計画・訓練等のソフト面での対策を強化し、被害の軽減を図る。また、情報技術やUAVの活用による、よりリアルタイムで正確な河川の水位や氾濫の把握とそれに基づく避難情報を提供する。

 このように非常に広範囲の対策を網羅したものになっています。一部の報道で伝えられた「水害の危険性の高い土地の利用規制が眼目」とか「ハード対策からソフト対策への転換」といった限られた対策ではありません。

 前回、この「流域治水法案」は、土木学会の「提言」からスタートしたように書きましたが、実はそれ以前から基本的考え方は提唱されていました。

 2010年、九州福岡市での樋井川流域治水市民会議の結成。

 2015年、滋賀県での流域治水条例の制定。

 さらにさかのぼれば、1980年に神奈川県川崎市で「鶴見川の流域思考に基づく総合治水計画」が策定されています。2019年ラグビーワールドカップ時に、日産スタジアム周辺の多目的遊水地が機能して無事に開催されたことが記憶に新しいところですが、この遊水地は鶴見川総合治水計画で建設されたものでした。

 このように各地域で作られたきた「流域治水」の考え方が、この法律の成立によって表舞台に上がってきたと言えるでしょう。

 「流域治水」法は、明治43年(1910年)から100年間続いた治水の考え方を変え、次の100年の治水、国土のあり方を決める極めて重要なものです。私はこの考え方は正しいものだと思っていますが、課題は以下のことでしょう。

①国家百年の計であり、実行は長期にわたります。今後百年の間には、水害だけでなく東海地震や富士山の噴火などの地震・火山災害の発生も危険視されています。とりわけ東海・東南海地震は近い将来に必ず発生するとみられます。限られた財源の中で、優先順位をつけて実行していくことが迫られるでしょう。

②流域の中には様々な利害関係者がいます。縦割り行政を克服し、この関係者の利害を調整する制度、機関をしっかり作る必要があります。

③首都圏などの都市部への人口集中を防ぎ、コンパクトシティーを中核とした地方への人口・産業の分散をはかるという方針に本腰を入れていく必要があります。

④以上のことを実行するためには、ことあるごとに財政の健全化を主張する財務省を説得し、大胆な財政出動を実行しなければなりません。また一方で財政再建も重要であり、これをどう両立させていくのか、難しい課題といえます。

 この法律は成立したから効果が表れるというものではありません。しかし、これまでの治水の歩みがそうであったように、【流域治水】も長い時間はかかりますが着実に成果を出していくものと信じています。