8月9日(金)に仙台市旭ヶ丘市民センターにおいて、令和6年度の安全大会を行いました。社員・協力会社31名、元請け会社の大日本ダイヤコンサルタント株式会社様、株式会社東北開発コンサルタント様から7名のご参加をいただき、計38名で行いました。
今回の安全大会は、昨年に引き続きリスクアセスメント手法による危険予知活動のグループワークと、AED(自動体外式除細動器)を用いた緊急救助活動訓練を行いました。KYグループワークでは、「ロッドの落下によって手を挟んで骨折した」という事故事例をテーマとして「どんな危険が潜んでいるのか」「私たちは具体的にどうするのか」というKY活動を、6グループに分かれて討議、発表を行いました。
後半はセコム株式会社様から講師を派遣していただき、AEDを使った訓練を行いました。AEDはすでに多くに事業所だけでなく、建設工事現場にも導入されてきています。万一仲間が心肺停止状態になった場合に、慌てずに救助することができるように訓練しておきたい、という主旨で行いました。AEDの仕組み、被災者発見後の救助要請から被災者の状態確認、胸骨圧迫(心臓マッサージ)、AEDによる電気ショックの操作方法という一連の流れを学び、参加者全員が実地訓練に参加することができました。
2時間という限られた時間で盛り沢山の内容だったため、事務局からの安全管理報告、今後の方針報告は駆け足になってしまいました。昨年の安全大会から1年間で29カ所の安全パトロールを行い、WEBを利用した安全会議を3回、その他適宜に他社の事故報告と対策等をメールで連絡するなどの安全活動を行ってきました。今年も引き続き安全パトロール、安全会議を中心に、無事故、無災害で現場作業を進められるように社員、協力会社だけでなく、元請け各社とともに頑張っていきたいと思っています。

熊谷代表取締役の挨拶

KY(危険予知)活動の討議

KY活動の発表

セコム株式会社様からのAEDについての講義

心肺蘇生の実習訓練
信濃川が最も日本海に近づく大河津から日本海に信濃川を分流するという案は、寛政元年(1789年)、寺泊の豪商、本間屋数右衛門が幕府に願い出たことから始まると伝わっています。おそらく本間屋数右衛門だけでなく、かなりの共通認識であったと想像できます。しかし、水利権をめぐる対立や、莫大な費用のため実現に至りませんでした。
戊辰戦争が終わったばかりの明治2年、白根村の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を請願し、明治新政府はこれを認め、明治3年に第1期大河津分水工事が開始されました。しかしこの時も反対運動と外国人技術者の「信濃川本流への影響が大きすぎる」という勧告で工事は中止され、それに代わる堤防強化の方針が打ち出されます。
大河津から新潟河口までは約55km、分水路の長さは約10kmです。したがって分水路の勾配が急であり、水は本流よりも分水路の方が流れやすくなります。この流れのコントロールが当時の技術では難しい、ということが外国人技術者の勧告の理由です。これはのちの工事で実際に起きてしまいます。それはともかく、明治19年から明治35年まで河川改修と堤防工事が行われましたが、その時に起きたのが前回触れた「横田切れ」水害です。

大河津分水位置図
この洪水被害の大きさから、政府は明治42年から第2期大河津分水工事を開始します。これは大変な難工事となりました。大河津と寺泊海岸との間には、角田山、弥彦山から続く標高100~150mの山地があります。これを掘削するために最新型の動力掘削機と、延べ1,000万人の労働者を投入しました。この工事は「東洋一の大工事」と呼ばれましたが、一方で「お化け帳場」とも呼ばれました。
それは掘削する山が、新第三紀の泥岩でできていて、地すべりを起こしやすいためでした。工事中に3回も地滑りが発生し、特に3回目は、掘削した分水路が埋まってしまうほどの大規模なものでした。
昭和2年(1927年)5月に分水路は完成しますが、その直後の6月24日、川底がえぐられ、自在堰の基礎に空洞ができ陥没してしまいました。そのため信濃川本流の水のほとんどが分水路に流れ込み、下流域に水が流れないという事態が発生します。下流域の住民の生活、農業用水、舟運に甚大な影響が起きました。先に述べた外国人技術者の心配が現実になってしまいました。
この事態に内務省が送り込んだのが、新潟土木出張所長の青山士(あおやまあきら)と主任技官の宮本武之輔(みやもとたけのすけ)です。青山士は、大学卒業後、単身アメリカに渡り、パナマ運河開削工事に従事し、その設計を担当した人です。日本に帰国後は、内務省技師として荒川放水路、鬼怒川改修工事を指揮した、河川工事のエキスパートでした。宮本武之輔も青山士と同じ東京大学土木で廣井勇の門下生であり、内務省技官として青山士の部下として利根川、荒川の改修工事を担当していました。内務省は当時のエース技官二人を陣頭指揮として送り込んだのです。

青山 士
崩落した自在堰を取り除き、新たに可動席を建設する工事が始まりました。1930年8月30日に豪雨のため洪水の危機が迫り、宮本武之輔は下流の洪水を防ぐため、仮締め切り堤を独断で破壊するという事態もありましたが、工事を遅らせることなく、1931年6月30日に可動堰工事が完成。ついに大河津分水は構想から140年の時を経て完成したのです。
さらに大河津分水路の後には、関谷分水路、加治川放水路、新発田川放水路など数多くの排水路が作られました。これらの分流施設によって、新潟平野は現在の穀倉地帯に姿を変えたのですが、もう一つ大きな役割を果たしているものがあります。それは越後平野各地にある排水機群です。新川河口排水機場、新井郷川排水機場、白根排水機場、親松排水機場など多くの排水機場が、低地に集まってくる水を排水しています。上の4つの排水機場の排水量は毎秒450m3に及び、ほぼ信濃川の平均流量に匹敵しています。

現在の大河津分水

親松排水機場
大河津分水は新潟平野を洪水の危機から救い、穀倉としての繁栄をもたらしましたが、一方で信濃川からの土砂の供給が減少し、新潟河口部での海岸の後退という事態も引き起こしています。明治時代から現在まで約350mの海岸の後退が見られます。これに対して、離岸堤、人工リーフ、潜堤の設置工事や人工的な砂の供給が行われています。
千曲川水害の要因となってきた立ヶ花、戸狩の狭窄部を掘削し、川幅を広げ、遊水地を作る工事がすでに始まっていますが、これも下流への影響を考慮しながら進めなければなりません。これひとつですべてがうまくいく、という対策はありません。信濃川とその水害と戦ってきた歴史を見ると、ひとつの水系をバランスよく整備し、住民の命と生活を守ることは本当に難しく、しかし大事な事業だと感じさせられます。
※この項の主な参考文献
信濃川自由大学 平成19年度公開講座「信濃川のルーツを探る~信濃川がつくった越後平野」
亀田郷農業水利建設所「芦沼略記」
丸山岩三「寛保2年の千曲川水害に関する研究」
国土交通省北陸地方整備局千曲川河川事務所ホームページ
同信濃川河川事務所ホームページ
新潟県の信濃川水害の記録を見ていると、気の毒になってしまうほどです。記録のはっきりしている1700年頃代から見ると、毎年のように「××で破堤、田畑の被害何万石」という記録が残っています。長岡藩、新発田藩、幕府代官所は人命の救助と食料の確保に右往左往していた様子がうかがえます。数多くの水害のなかでも、近世から近代最大で、信濃川=越後平野の水害の典型例が、明治29年7月22日に発生した大洪水「横田切れ」です。
「横田切れ」は西蒲原郡横田村(現在の燕市横田地区)において、信濃川の堤防が約300mにわたって決壊し、信濃川下流部が広範囲にわたって浸水した氾濫被害です。下は浸水範囲を示した地図です。被害面積180km2、床下床上浸水4万3600戸、流失家屋2万5000戸、死者75名という被害でした。この浸水は長期間に及び、低い土地では12月まで水没していたそうです。影響は浸水にとどまらず、衛生状態の悪化により伝染病が蔓延しました。

横田切れの破堤位置と浸水範囲
下の航空写真は新潟市亀田地区周辺の土地の高低を表したものです。青い地域は日本海の平均海面より低く、鳥屋野潟は海抜マイナス2.5mとなっています。新潟平野は、現在でいえば茨城県の霞ケ浦や北海道のサロマ湖のような潟湖(せきこ)を信濃川や阿賀野川が運んだ土砂が埋め立てて造った平野です。そして構造運動によって現在でも沈降が続く、十日町盆地から連続する向斜軸に相当しています。低平であり、排水条件が極めて悪い沼沢地でした。したがって、信濃川の度重なる氾濫は新潟平野の形成史から見て宿命といえるものです。

新田の開発は通常いかに水を引いてくるのかで苦労しますが、新潟平野ではいかに水を排除するのかが課題となりました。まず問題になるのが、川が海に出るのを邪魔している砂丘の存在です。正保4年(1647年)に描かれた絵地図を見ると、信濃川、阿賀野川、加治川はすべて合流して新潟の河口から日本海に流出していました。そのために排水されない水は多くの沼地に集中します。現在もある鳥屋野潟、福島潟、紫雲寺潟などはその名残です。

新潟平野では、排水路を掘削し、その土砂で沼を埋め立て、新田を開拓する作業を、各藩と農民が営々と続けていました。しかし泥に浸かって稲を育てても、連年の水害によって3年に1度しか収穫できない、さらに5年に一度は大洪水と言われる状態が続きます。
これを変化させたのが、1730年の阿賀野川の分流です。これは半ば偶然に起きた事態でした。もともとは紫雲寺潟の干拓のために新発田藩が阿賀野川のショートカットを計画し、幕府に願い出たものですが、新潟港の水深が浅くなることを恐れた新潟の町民が反対します。そのため、増水時だけ水を日本海に流す予定で砂丘を掘削したのですが、翌年の雪解け洪水によって破壊され、幅270mの本流になってしまったのです。これが現在に続く阿賀野川河口です。この阿賀野川分流により、阿賀野川旧流路付近は土地が干され、大幅な新田開発が可能になりました。
下の写真は昭和の時代まで続いていた新潟平野での農作業の様子です。泥田で腰までつかりながら田植えをし、刈り取った稲を船で運んでいることがわかります。司馬遼太郎は「街道をゆく―潟の道」で、こうした農作業の記録映画を見て次のように書いています。


「食を得るというただ一つの目的のためにこれほど激しく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くり返すという生産は、世界でも類がないのではないか」
阿賀野川の分流以降も、新潟平野全体の湛水状況はさほど変わらず、厳しい環境が続きました。また、洪水被害の頻発も変わりませんでした。こうした状況を脱し、安定した農業と生活を築くためには、信濃川を分流して日本海に流す必要がある、という認識は早くからありました。しかし、新発田藩、長岡藩、幕府天領が混在し治水事業がそれぞれの思惑で対立するという状況があり、また村落同士の水利権をめぐる対立、新潟町民の信濃川の水深が浅くなると新潟港の機能が失われることへの反対が根強く、大きな新川の開削には至りませんでした。
これを変えたのが最初に述べた「横田切れ」の大水害です。この水害により、ついに政府は「大河津分水工事」の実施を決定したのです。
寛保2年(1742年)7月28日から8月1日にかけて近畿から中部、関東甲信越を襲った水害は、特に千曲川流域と関東南部に大きな被害を及ぼし、近世日本における最大級の水害と言われています。利根川、荒川周辺の水害は寛保二年江戸水害と呼ばれ、下流の江戸下町は高潮とあいまって一面が湖のようになったと伝わっています。関東での死者は14,000人を超えたと言われています(資料によりだいぶ差があります)。
千曲川流域でも死者は3,000人と想定されており、やはり近世以降長野県で最大の被害の出た水害とされています。この年が戌年であったことから、信濃では「戌(いぬ)の満水」と呼ばれました。犀川流域では比較的被害が少なく、小諸、上田、松代(長野を中心とした北信地域)に被害が集中し、関東山地に降った豪雨が、関東地方では利根川、荒川に流出し、長野では千曲川に流出したものと考えられます。
新潟県津南より下流の信濃川では、増水による氾濫で農地や家屋の被害は甚大でしたが、死者数は6人と意外なほど少なかったと記録されています。
(※丸山岩三「寛保2年の千曲川水害に関する研究」より)
信濃の国のもうひとつの近世の大災害が1847年(弘化4年)の善光寺地震です。この地震は長野盆地の西縁に沿って分布する、長野盆地西縁断層帯(信濃川断層帯)が約50kmにわたって動くことで発生した、M7.4(想定)の地震です。長野盆地西縁断層の北西側が約2m隆起した典型的な直下型地震で、震源が極めて浅かったため、地表が激甚な揺れに見舞われ、大規模な災害となりました。

長野盆地西縁断層の位置
地震は旧暦3月24日(新暦5月8日)後の10時ごろに発生し、ちょうど7年に1度の善光寺如来御開帳にあたっていて、全国から多くの参詣者が集まっていました。門前町が大変な賑わいだったところに激震が襲い、火事と家屋の倒壊で数千人の死者が出ました。

善光寺本堂

善光寺地震の火事を描いた絵 「地震後世俗語之種」より
善光寺地震では広範囲にわたる山地災害が発生し、松代藩領(現在の長野市、飯山市などの北信地方)だけで約4万2000カ所に及ぶ地すべりや崩壊が発生しました。特に長野市西方の地域に集中し、犀川とその支流の土尻川、裾花川流域で著しく発生しました。
逆断層では一般に上盤側で大きな被害が出ることが多いことに加え、地層が主に新第三紀層の凝灰岩、砂岩、泥岩で構成され、風化が進んだ場所では崩れやすく、もろい岩盤となっていました。その中でも、犀川右岸の岩倉山(虚空蔵山)の大崩壊が二次被害を大きくしました。激震によって岩倉山の南西と北西斜面が崩壊し犀川を閉塞したのです。
この河道閉塞により高さおよそ60m、湛水量3.5億m3と推定される巨大な天然ダムが形成されました。水位は徐々に上昇し、16日後には満水状態になりましたが、崩壊土量が多く、越流し始めてから崩壊するまで時間がかかり、決壊したのは19日後になりました。
決壊した犀川の流れは善光寺平を襲い、その高さはおよそ20m、その後平野部に出てから流れが広がったため、高さを減じていきますが、小布施で10m、飯山で4m、下流の長岡でも1.5mの高さになったと伝わっています。その後およそ24時間で洪水流は日本海に達しました。
数日前から決壊が予想され、警戒態勢が敷かれていたため、多くの住民が避難でき、この土石流による犠牲者は松代藩で22名、中野代官所管内で4名と比較的少なかったとされています。しかし、農地、家屋の被害は甚大で、その復旧には長期間がかかったのです。
千曲川流域での近世で大きな被害が出た災害を2例取り上げました。少ない事例ですが、その特徴は、信濃の国が山国であり、山地に降った雨が一挙に川に集中し氾濫被害が大きくなりやすいこと、特に地形的な弱点である狭窄部と千曲川、犀川の合流点のある長野市から飯山市に被害が集中しやすいこと、土砂災害の発生が多いことがあげられると思います。
では、下流部の信濃川の特徴は何か、次回以降見ていきましょう。

この写真は長野市にある、善光寺平の洪水水位標です。善光寺平という地名は、善光寺がある平らな土地という長野市の古い呼び方です。善光寺はおよそ1,400年の歴史を持つと言われ、全国から参詣者が訪れる大変に由緒のあるお寺です。
それはともかく、この洪水水位標の一番上には1742年(寛保2年)8月2日、2番目に2019年(令和元年)10月13日の水位が表示されています。これだけ高い洪水があったことは驚きです。
令和元年10月13日の記録は、台風19号のもので、関東甲信越から東北まで広い範囲で水害が発生し、令和元年東日本台風と命名されたことは記憶に新しいところです。この台風は典型的な雨台風で、静岡から関東南部、甲信越、東北地方で大雨となり、24時間雨量が、神奈川県箱根町で942mm、静岡県湯ヶ島で717mm、宮城県丸森町筆甫(ひっぽ)で588mmなど記録破りの豪雨になりました。
24時間雨量900mmというと、丸1日で約1mです。これが川に集中するのですから、どれだけの流れになるのか想像を絶するものがあります。一級河川の千曲川、阿武隈川本流が破堤し(よく国土交通大臣がクビにならなかったものです)、広域かつ同時多発的に被害を発生させ、全国で死者、行方不明者108名、全半壊家屋12,125棟等の甚大な被害となりました(2020年10月時点)。
全国で見ると、死者が最も多かったのは福島県で36名、阿武隈川が郡山、須賀川、本宮、伊達などで広範囲に決壊したためでした。次が宮城県で19名。丸森町で阿武隈川支流の破堤や土砂災害が多発しました。余談になりますが、この台風19号の被害の大きさが、現在進められている「流域治水」への方針転換のきっかけになりました。(当ブログ2021年8月6日「流域治水の背景」)宮城県では丸森町で阿武隈川支流の内川、五福谷川などの改修工事、大郷町の吉田川の改修工事が現在も続いています。
千曲川では犀川と合流する長野市で堤防が決壊し、長野市から千曲市、中野市、飯山市にわたって氾濫しました。新幹線車両基地が水没したニュースで有名になった、長野市刈穂地区が決壊地点でした。この水害で長野県では災害関連死も含め15名が亡くなっています。一方下流の新潟県では、被害はあったものの死亡者は出ていません。

台風19号での千曲川堤防決壊状況
長野市周辺の水害の地形的要因は、長野・新潟県境付近にある、立ヶ花、戸狩の二つの狭窄部です。下の図は信濃川水系の延長と勾配を表したものです。犀川合流点から飯山盆地の間で勾配が緩くなり、戸狩狭窄部の下流から再び勾配が急になっています。図2は川幅を表したものですが、立ヶ花、戸狩の川幅が極端に狭くなっていることがわかります。

図1 信濃川河床高縦断図

図2 信濃川川幅縦断図
出水時にはこの狭窄部で水の流れが遅くなり、水位が上昇します。このため、狭窄部上流で水とともに流れてきた土砂が堆積し、比較的広い堆積盆地が形成され、勾配が緩くなっているのです。そしてこの狭窄部を抜けると再びストレスなく流れていきます。この地域が下流に対する天然の遊水地機能を果たしていると見ることもできます。
前回、千曲川と信濃川はその形成史から言っても別の川と言っていいような川である、と書きましたが、水害の歴史を見てもその様相はだいぶ違います。もちろん一続きの川なので上流の水害は下流にも影響するのですが、被害のありようはだいぶ違います。その大きな原因のひとつがこの狭窄部にあります。
中央山岳地帯や信越国境の山々が大きく隆起したのは、およそ300万年前からとされています。この隆起は現在も続いています。毎日山を見ていてもその高さが変わるわけではないのですが、何万年、何十万年という長い間で見ると変わっています。筑摩山地を抜けて松本から長野に流れる犀川や、この狭窄部を流れる千曲川は、隆起する山地を削り、谷を作り続けています。フォッサマグナ地帯の隆起と沈降という大地の動きが、複雑な地形と、もろい地質の原因になっているのです。
千曲川の過去の水害の代表例として、善光寺平洪水水位標にあった、1742年の水害と1847年の善光寺平地震を取り上げてみます。