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信濃川についていろいろ(2)信濃川の古環境

2024年04月08日

 前回、千曲川―信濃川の流路を概観しましたが、大きい川だからというだけでなく、信濃川は地域によってその性格が大きく変わっています。千曲川、犀川、(新潟の)信濃川という三つの川に分けて考えた方がいいくらいです。実はそもそもこの三つの川は別々の川で、ひとつの川になったのは40~50万年前であり、それまでは別々に日本海に流れていたと考えられています。

                信濃川の古環境の変遷

    「越後平野のルーツを探る~信濃川がつくった越後平野~」信州大学教授赤羽貞幸氏 より編集

 300万年前から200万年前まで、新潟県の海岸は大きく内陸に入り込み、頚城丘陵が隆起を始める前までは、長野市付近まで海であったと考えられています。高瀬川は北アルプス白馬連山の麓、青木湖を源流としていますが、西頸城山地付近が隆起する前は、梓川、奈良井川と合流して白馬村付近で日本海に出ていたと考えられています。同様に千曲川も長野市付近で日本海に流出していました。まだその頃は、信濃川はなかったのです。

 日本列島が大きく隆起し始めるのはおよそ300万年前からです。飛騨山脈などの中央山岳地帯も大きく隆起し、大量の土砂、砂礫を麓の盆地に供給し、松本盆地、長野盆地は沈降して土砂の受け皿となりました。長野盆地では地下800m近くまで砂礫が溜まっていることがわかっています。

 信越国境の山々、西頸城山地、関田山地の隆起と妙高山、新潟焼山などの火山活動によって日本海への流路を絶たれた犀川は、松本盆地、長野盆地、飯山盆地という沈降地帯をつなぎながら千曲川と合流し、東へと流れを変えていきました。そして津南―十日町―小千谷という流路から日本海に出る古信濃川ができたと考えられます。

 では、信濃川下流域はどうだったのか。現在の越後平野が姿を現したのはわずか数千年前です。それ以前は氷期―間氷期の海水準変動に規定されながら、ほぼ広い海から入江でした。そして古信濃川が運ぶ大量の土砂が埋め立てていきました。

 およそ2万年前の最終氷期の頃は、世界的に海水面が今よりも100m以上低く、新潟でも海岸線ははるか沖合にありました。氷期が終わり温暖になると、海水面が上昇し、約7,000年前には新潟平野の海岸よりの大部分は海面下となりました。その後、海岸線に沿って細長い砂州ができ、その内側は潟湖となりました。

         約6000年前の新潟平野(防災科学技術研究所より)

新潟平野沿岸だけでなく、柏崎にも大きな砂丘があります。また、山陰地方や東北地方でも、日本海側の大きな河口がある平野では砂丘の発達が見られます。これは河川が運んだ砂が、特に冬期の北西からの風波によって打ち上げられできあがったものです。新潟平野では信濃川、阿賀野川からの大量の土砂によって大規模な砂丘が形成されました。

 この砂丘が河川の出口を閉塞し、平野部には湛水域が広がり、広大な沼沢地となったのです。福島潟や鳥屋野潟は、この沼沢地の名残です。広大な新潟平野の沼沢地が、現在の稲作地帯に変わっていくのは、阿賀野川の河口の変更や信濃川の分水の掘削が行われた江戸時代末期から明治以降のことになります。

 ところで新潟県を東西に移動すると、なんども山地と平地をくりかえし横断します。新潟の地形は大きく東側から見て、越後山地、魚野川―六日町盆地、魚沼丘陵、信濃川―十日町盆地、東頸城丘陵と、東北―南西方向に軸を持った盆地と山地・丘陵が繰り返し現れます。これは北西―南東方向の圧縮応力場に置かれた新潟地域が、活断層と活褶曲によって波状の地形になっているからです。下の図は新潟平野の断面図です。角田山地や魚沼丘陵で地上に見える地層は、向斜部(地層が下にむかって曲がっている部分)である十日町盆地では地下2,000mにあります。

               新潟平野の断面図

       新潟平野周辺の陰影起伏図(地理院地図を編集)

 新潟市から蒲原郡の越後平野はこの十日町盆地の延長上にある向斜軸に相当しており、この活褶曲活動は現在も継続しています。すなわち現在も沈降を続けているのです。

 平野―山地の境界に活断層があるのは一般的ですが、これだけ活褶曲があるのは新潟地方だけかもしれません。それは堆積層が新しく変形しやすいからと考えられます。そして大量の土砂を供給できる上流部があるからでもあります。この2つの条件をフォッサマグナ地域が満足しているのです。

 このような地形・地質的条件の下で、現在の信濃川がどのようになっているのか、上流部(長野県側)と下流部(新潟県側)に分けてみていきたいと思います。