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木曽三川(つづき)

2023年12月21日

 天気予報を見ていると、天気は西から東に変わっていきます。これは日本の上空に偏西風という強い西風が常に吹いているからです。もちろん雨も西から降り始めていきます。すると木曽三川の地域では揖斐川上流でまず大雨が降り始め、やがて大雨の範囲は長良川上流、木曽川上流へと移動します。

 揖斐川は河川勾配が最も急なため、まず揖斐川が出水し、長良川に逆流し、時間差で増水した長良川の水は木曽川に逆流します。さらに時間差で木曽川も増水し、三川の合流地帯は毎年のように氾濫が発生し、特に西側の揖斐川、長良川下流域の被害が甚大となりました。

 問題を大きくしたのが徳川家のいる尾張を優先的に守るために作った「御囲堤」です。慶長13年から15年にかけて徳川家康は、木曽川左岸(名古屋側)に、犬山から弥冨にかけて延長50kmに及ぶ堤防を作ります。これにより洪水流は右岸側(岐阜側)に集中します。そもそも地形的に被害が大きくなりやすい西側に、さらに「御囲堤」が追い打ちをかけたわけです。これに対抗して作られたのが有名な「輪中提」です。

          輪中分布図

 もともと、揖斐川、長良川、木曽川の合流地帯は、分岐・合流によって流れが網目状になり、中洲が数多くあり、それが集落と耕地になっていました。「御囲堤」による洪水集中の危険から身を守るため、これらの集落ごとに、集落と耕地を丸ごと堤防で囲んだのが輪中提で、それぞれの輪中がひとつひとつの村になったのです。江戸初期から作られた輪中は、明治中期にその数約80、面積にして1,800km2と言われます。

 しかし輪中提も鉄壁の防御ではありませんでした。川には土砂が堆積し、浅くなっていきます。また、輪中提によりそれまでの遊水地機能が失われました。大出水で堤防が破堤し、輪中の中に流入した水や土砂の排除も難しくなり、なかには輪中内が湿地化したところもあったそうです。時間の経過とともに、堤防を築くことによって氾濫被害が大きくなるという逆説的な現象が起き始めたのです。

 この地域の水害を防ぐためには、三つの川を合流させずに流すことが最も合理的であることは早くから指摘されていました。輪中地域の住民が三川分流案を幕府にたびたび願い出ています。また、紀州流治水で知られる美濃郡代井沢為永も1735年に分流工事を立案していますが、余りの困難さと莫大な費用のために実現していませんでした。

 宝暦4年(1754年)から宝暦5年にかけて、幕府は薩摩藩に命じて三川の分流を目的として油島の締切工事、大洗川と逆川洗堰締切工事を行わせました。これが有名な宝暦治水工事です。※1

 杉本苑子の小説「孤愁の岸」(1962年直木賞受賞作)に詳しく書かれていますが(ある程度のフィクションも含まれています)、幕府が土木工事を外様大名におこなわせるのは、外様大名の力をそぐためによくやった手法だそうです。この工事は大変な難工事となり、総勢427名の薩摩藩士のうち、51名が自害、33名が病死し、工事責任者の薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)も工事後に責任を取って自害したと伝わっています。

       宝暦治水工事 工事位置図

 この工事は一定の成果を上げたものの不十分であり、締切堤の破堤や洗堰の撤去を求める運動が起こるなど、さまざまな問題がありました。その後も改修工事は続きますが、最終的には前回述べた、ヨハネス・デケーレによる、三川の完全分流工事によって現在の形になっています。

 三川分流工事の完成によって、それ以前の毎年のような洪水氾濫被害は起きていませんが、この地域が水害の危険地帯であることは変わっていません。それをはっきり示したのが、昭和34年9月の伊勢湾台風の被害です。愛知、岐阜、三重の三県で、死者・行方不明者5,098人、明治以降最大の被害が出た水害でした。

 伊勢湾台風は、そもそも超大型の猛烈な台風で、最低気圧は894hPa(ヘクトパスカル)、潮岬付近で上陸した時点でも929hPaの勢力を持ち、暴風圏は半径300kmというものでした。上陸した台風としては今でも史上最強と言われています。

 伊勢湾台風は高潮による被害が大きかったことで有名です。非常に低い気圧のために海水が上昇し(吸い上げ効果)、強い南風によって遠浅の伊勢湾の海水が吹き寄せられ、名古屋港では海水位が平均海面より4mも上昇しました。

 被害を大きくしたもう一つの要因は、名古屋市周辺の工業化に伴う地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しく、海抜ゼロメートル以下の地域が広がり、そこに無計画に市街化が進んでいたことです。海岸堤防が破堤すると、ひとたまりもなく水没してしまいました。海水を排除して、水没地が完全になくなるまでには、約半年かかりました。

 こうした木曽三川下流域の歴史を見てくると、「ブラタモリ」のお題「木曽三川VS人間の激闘の歴史とは」について複雑な思いにとらわれます。プレートの動きとそれによってできた地形的な条件の中で、人々は生活していくために必死に闘ってきました。輪中提の建設とその後の経緯は、良かれと思って作ったものがさらに被害を作り出す逆説的結果を示しています。これは明治以降の連続堤の構築によって、降った雨を速やかに堤防に閉じ込めて海に排出するという治水方針によって、堤防内の流量が増加し、都市型水害が増えている現状を連想させます。

 あらゆる災害は自然現象のあらわれです。自然を完全に管理することはできませんが、一方でしょせん自然の力にはあらがえないとあきらめることもできません。どうすれば自然と折り合いをつけながら人の命と生活を守っていけるのか、木曽三川の歴史には汲み取るべき教訓が数多くあるように感じます。

※1 締切工事とは分流している川の片方に堤防を作って流れを一つにする工事であり、洗堰(あらいぜき)締切工事とは、上を水が流れる堰堤を作って片方に流れる水量を制限する工事です。