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北上川についていろいろ(5)北上川下流の流路のなぞ(つづき)

2020年10月07日

 勾配の緩い河川の水害対策は大変難しく、分流して排水するしか方法がないとさえ言われています。新潟平野では、信濃川を大河津で分水したり、阿賀野川を分流し松ヶ崎放水路で日本海に排水することで常襲的氾濫を解決しました。(分流前の阿賀野川は信濃川と河口近くで1本に合流して日本海に注いでいました。松ヶ崎放水路がそのまま本流河口になることで信濃川と阿賀野川は別の河口を持つことになり、このことが、新潟平野の排水を大きく進めることになりました)このように見ると、伊達政宗、川村孫兵衛が北上川・迫川・江合川を1本に合流させ、石巻から太平洋に排水するのは水害対策の定石に反しています。

 江合川はもともと和渕山の西側を流れ、現在の定川を通って石巻湾に注いでいました。江合川と北上川の合流点の地形図を見るとわかるとおり、神取山の東側を流れていた北上川(迫川)の流路を西側に変え、わざわざ神取山と和渕山の間を開削して江合川を狭い流路で合流させただけでなく、人工的な狭窄部を作っています。このことにより、迫川下流部の約5,000haが遊水地化し、迫川流域は水害の常襲地帯となってしまいました。

     現在の旧北上川・迫川・江合川の合流部:人工的な狭窄部があることがわかる

              陸地測量部大正4年測図地形図

 大正4年測図の旧版地形図を見ると、神取山の合流点から江合川左岸、迫川流域が広い荒地になっています。現在では同じ場所は新迫川の開削などにより広い水田地帯になっていますが、大正4年でもまだ遊水地のままです。

 近世以降の記録から、北上川下流域の水害の特徴として、迫川の洪水がきわめて多く、北上川本流の水害が少ないということがわかっています。「若柳町誌」によると「三年一作」つまり3年に1度しかまともにコメが獲れないといわれたほどです。迫川、江合川流域の住民は、新川開削による水害解決の願いを何度も出していますが、仙台藩はこれを認めることがありませんでした。

 政宗-孫兵衛コンビによる北上川の流路改修の大きな狙いは、北上川の水運の確保にありました。仙台藩64万石、実高100万石と言われましたが、盛岡藩も含めた北上川流域の米を千石船で江戸に運搬し、売却することで藩財政を支えることが仙台藩の目的であり、そのためには北上川の流量を増やし、船が常時運行できるだけの水深を確保すること、積出港である石巻を水害から守ることを最大の目的として北上川の改修工事を行ったと考えられています。その狙いは成功し、江戸の米の消費量の実に3分の1以上が、石巻から運ばれた仙台米であったと言われているほどです。

 江戸時代初頭の改修工事でできた北上川の流路は藩政時代には変わることがありませんでした。この政宗-孫兵衛コンビの負の遺産を解決することが、明治から昭和にかけて行われた近代的な北上川改修の目的となりました。それはまた、明治以降の鉄道の発達により、国内流通における水運の占める位置が低下することによって可能となったのです。


北上川についていろいろ(4)北上川下流の流路のなぞ

2020年09月15日

 ある石巻市民の方が「おらほの川が北上川なので、旧北上川という呼び方はやめてほしい」と東北地方整備局北上川下流河川事務所の所長に言っているのを聞いたことがあります(所長は苦笑いしていました)。

 北上川、旧北上川、新北上川、迫川、旧迫川、江合川、新江合川と北上川下流域は、江戸時代からの改修に次ぐ改修で新旧の流路が入り乱れ、何が何だかよくわからない状態です。 

 まず、そもそも北上川本流の河口はどこにあったのか。「明治以前大日本土木史」によると、北上川は佐沼の南から今の迫川を通り、飯野川から追波湾に抜けていたとしています。下に示す「貞山・北上・東名運河事典」の「慶長9年までの流路」はこれに基づいていると思われます。

            慶長以前の北上川流路

   「貞山・北上・東名運河事典」ホームページより(以下同じ)

 一方で石巻市河口付近のボーリングデータによる断面図を見ると、旧北上川付近と定川付近に深度約80mの二つの深い埋没谷が見られます。石巻市と東松島市の境を流れる定川は、現在はほんの小河川ですが、改修工事前の江合川本流であり、定川は江合川の名残川です。

 埋没谷は、今より100m以上海面が低かった氷河期に河川が作った谷が、氷河期終了(約1万年前)以降に川が運んだ土砂で埋められたものです。これだけ深い埋没谷があることから、古い時代から北上川本流、あるいは分岐した川でも相当の水量のある川がここにあったと考えるのが自然でしょう。先の流路図のような小河川とは考えにくいところです。石巻市民の意見ももっともです。

 一方、阿子島(1968)は「追波川沿いに最大-95m以下の埋没谷が認められ、北上川は石巻港へ注ぐ旧北上川沿いの流路とともに追波湾に注ぐ、新北上川~追波川の二つの流路が存在した」と述べています。

 狐禅寺の狭窄部を抜けた北上川が、人の手が加わる前にどこを流れていたのか、実はよくわかっていません。北上川下流域は非常に勾配の緩い土地なので、大出水のたびに流路を変え、広大な遊水池帯となっていたと考えられます。北上川、迫川、江合川、鳴瀬川はくっついたり離れたりをくり返していたのではないでしょうか。

 北上川だけでなく、利根川や信濃川などの大河川の下流域の平野部は、自然状態では「水腐れ地」と呼ばれる排水の悪い、葦が繁茂する低地が大きな面積を占めていました。水質が悪く飲料水を得ることも難しく、耕作にも不適な土地です。江戸時代以来、瀬替え、分離、分水などの河川工事を行ってきたのは、こうした土地を常習的湛水被害から守り、開墾を可能にし、交通路を確保することを目的としていました。

 伊達政宗の統治以来現在まで北上川下流域の流路の改修が行われてきたのですが、その過程を見ていきたいと思います。

 流路の変遷は諸説あるのですが、現在一般的に認められている明治以前の流路は次のとおりです(これも諸説あります)。

①慶長以前:狐禅寺狭窄部を抜けた北上川は、現在の登米市中田町浅水付近で分流し(分流していなかったという説もあります)、登米市吉田付近で迫川に合流していた。つまり、迫川の流路が北上川本流であったと考えられる。

②慶長年間(1606年~)伊達政宗は、領地開発(新田開発と水運の確保)のため、登米城主伊達宗直に命じ、北上川を浅水で締め切り、東和町米谷に大きく湾曲させる相模土手を築き、二股川に付け替えた。これで米谷-柳津-飯野川-追波川という流路になった。

           伊達宗直による改修工事後

③柳津-飯野川の流路は河道が狭く急流になり船の運航にたえなかった。また、洪水の被害も頻発した。このため政宗は川村孫兵衛に命じ、柳津で流路を締め切り西側の迫川に再度合流させるとともに、江合川を和渕で北上川に合流させ、石巻に導いた。これにより、石巻は北上川、迫川、江合川の全流域の経済圏の中心となり繁栄を迎えた。

           川村孫兵衛による改修工事後

 しかし、「これでめでたしめでたし」とはなりませんでした。続きは次回。


北上川についていろいろ(3)カスリーン・アイオン台風その後

2020年09月05日

 カスリーン・アイオンという二つの台風はその後の日本の治水のあり方を大きく変えました。

 前回、一関のことばかり書きましたが、カスリーン台風は関東地方で大被害が出ています。利根川は9月16日深夜に埼玉県東村(現在の加須市)でまず決壊。現在の久喜市から幸手市に向かって濁流が南下します。荒川も熊谷市で堤防が決壊し、元荒川沿いに流下していきます。この二つの流れは合流し、ついに9月19日未明東京都に達し、足立、葛飾、江戸川の各区が水没してしまいました。

        埼玉県東村(現在の加須市)で決壊した利根川

          東京都葛飾区の浸水被害

 この氾濫流は、もともとの利根川の河道にそって流れています。利根川は古くは今の江戸川を通って東京湾に流入していたものを、江戸時代に鬼怒川と合流させ、銚子で太平洋に流入するように改修したのですが(利根川の東遷)、氾濫流は古い川の流れに沿って流れたのです。自然状態の古い河道が低い位置を流れていたので当然のことでした。

     利根川・荒川の決壊箇所

 この台風被害を教訓として、国はダムによる計画的な洪水調整に乗り出します。関東では「利根川改訂改修計画」が作成され、利根川水系8大ダムの建設が始まります。昨年の研修旅行で見学した八ッ場ダムも、もともとこの計画で建設されたものです。昨年の台風19号の豪雨時に、できたばかりで大量の雨水を貯留し、被害の軽減に役立ったといわれています。

 話は北上川に戻りますが、北上川でもカスリーン・アイオン台風の被害を教訓に、利根川と同様「北上川改訂改修計画」を定め、5大ダム(石淵ダム、田瀬ダム、湯田ダム、四十四田ダム、御所ダム)の建設を始めます。そしてさらに昭和47年から一関遊水地の建設が進められています。

     北上川五大ダム

 遊水地は、普段は水田として利用し、洪水の時に一時的に水をためて下流に流れる水の量を減らす施設です。

「一関遊水地は、地形的特徴をふまえ、遊水機能を最大限生かすことで北上川の洪水ピーク流量を低減し、下流部の氾濫を防止するとともに、狭窄部の拡幅や築堤等の改修負担を軽減する、水系全体の治水バランスを図った洪水調整施設である」(国交省岩手河川国道事務所ホームページより)

        平成14年7月水害時の一関遊水地

 これらの治水事業の結果、北上川の洪水は、狐禅寺で戦後第3位の水位を記録した平成14年7月水害、平成19年9月水害でそれぞれ死者・行方不明者2名を出していますが、カスリーン・アイオン台風のような甚大な被害は出ていません。また、昭和56年の台風15号は、ほぼアイオン台風に匹敵する雨量を記録したといわれていますが(ただし、気象情報の測定精度および測定地点数が時代によって変わっていますので、正確な比較はできません)狐禅寺での水位は12.51mと約2.5m低くなっています。これは上流域のダム群や一関遊水地の効果と考えられています。

 一時「コンクリートから人へ」といったコピーや「ダムによらない治水対策」という方向性が打ち出されました。この治水対策の方向性はこれからも検討が続くと思いますし、多様な治水のあり方を模索するのは当然のことです。平成29年の九州北部豪雨から西日本豪雨、台風19号、今年の九州豪雨と毎年激甚災害に指定されるような水害が発生しており、治水構造物によるハード対策だけでなく、避難方法、避難指示のあり方、降雨、河川水位のリアルタイムな情報収集と提供などのソフト面での治水対策が今後一層重要になってくるでしょう。しかし、ダムや遊水地を用いた戦後の治水事業が水害を防ぐために大きな力を発揮した、また現在も発揮していることを過少評価してはならないでしょう。

(写真はいずれも国土交通省関東地方整備局、東北地方整備局のホームページから引用しました。)


北上川についていろいろ(2)北上川上流域とカスリーン・アイオン台風

2020年08月20日

 私が卒業した高校は、北上川の支流磐井川のそばにありました。まだカスリーン・アイオン台風の記憶も残っており「学校のそばの××にはまだ死体が埋まっていて、夜な夜なユーレイが出るんだぞ」と先輩に脅かされたものです。

 こんな話があるように、一関の人々にとってこの台風による水害の記憶は大きく、一関市内には最高水位標が掲示されています。

       一関駅前にあるカスリーン台風、アイオン台風の洪水水位標

 北上川上流域(岩手県側)の水害の歴史を見ると、元和元(1617)年から元治元(1864)年までの247年間で168回の洪水があった、つまり10年に7回の洪水があったとされています(宮城県史・災害年表など)。雫石川が合流する盛岡市、猿ヶ石川、豊沢川が合流する花巻市付近、和賀川が合流する北上市、胆沢川が合流する水沢市、磐井川が合流し狐禅寺狭窄部の上流にあたる一関市から平泉町、さらに狭窄部内にある薄衣、黄海、日形といった各地域が水害の頻発地点として知られています。

 大出水によって氾濫がおきやすい場所はある程度決まっています。

①本流と支流の合流点

②河川の大きな屈曲部と河川勾配の大きな変換点

③河川の狭窄部(きょうさくぶ=狭くなっているところ)とその上流

④流木が引っ掛かる橋などの構造物があるところ

 日本の大河川は、一般的に上流の盆地(あるいは盆地列)から狭窄部を通って河口のある平野部に抜けるという共通した傾向があります。例えば信濃川(千曲川)は、上田盆地―長野盆地―立ヶ花狭窄部―飯山盆地―戸狩狭窄部と二つの大きな狭窄部を通って新潟県平野部に出ます。当然のことですが、洪水により水量が多くなると狭窄部で流量が制限されるため、上流の水位が上昇し氾濫被害を大きくします。

 先ほどあげた北上川上流域の水害の頻発地点のなかでも、最も被害が深刻な地域は狐禅寺狭窄部の直上流にあたる一関市でしょう。このことをはっきり示し、その後の北上川流域の治水のあり方を変えたのが、第二次大戦直後に日本を襲ったカスリーン、アイオンの二つの台風でした。

 カスリーン台風は1947年(昭和22年)9月14日から15日にかけて日本付近を通過し(通過時の中心気圧970Hpと推定)関東、東北地方に甚大な浸水被害をもたらしました。関東では利根川、荒川が破堤し、東京都足立区、葛飾区、江戸川区が水没、全国での死者・行方不明者は1,930人になりました。一関市では、停滞していた秋雨前線が刺激され、9月15日の夕方に北上川右支流、磐井川の両岸堤防が破堤し、山目地区を中心に100名の死者が出ました。

     アイオン台風による一関市の被害:一関市ホームぺージより

 それからちょうど1年後の昭和23年9月15日~16日、伊豆半島から房総半島に上陸したアイオン台風は、太平洋岸に沿って北上し、特に東北地方の太平洋側に豪雨をもたらしました。全国での死者・行方不明者は838名に上りました。一関地方の総雨量は403mm、磐井川が増水して、復旧したばかりの堤防が再び破堤、北上川本流に合流した後市街地に逆流。一関での死者・行方不明者は473名でした。

 北上川狐禅寺での最高水位は、カスリーン台風時に17.58m、アイオン台風時に15.38m、この記録は現在でも破られていません。

千歳橋から見た狐禅寺狭窄部入り口:山が迫ってきて川幅が狭くなることがわかる


令和2年度安全衛生大会を開催しました

2020年08月18日

 8月8日に午前10時から宮城野区中央市民センターで、令和2年度安全衛生大会を開催しました。

 4月7日に全国に新型コロナウィルスの感染拡大にともなう緊急事態宣言が発出され、弊社でも4月に予定していた安全会議、特別教育を中止しています。元請の建設会社、コンサル各社も安全大会は中止、あるいはリモート形式での開催に切り替えています。

 5月末に緊急事態宣言が解除され、8月の安全大会開催を決定しましたが、7月以降再び感染者が増加し第二波と言われるようになってきました。この中で安全大会を行うのかどうか、社内でも議論があり、現状で多人数を集めるのは無理があるのではないか、という意見もありました。

 一方で、コロナ禍の影響で業務の発注の遅れや減少はあるものの、日々の現場での作業は続いています。人は面倒くさがりで、安易な方向に流れやすいものです。安全活動を意識的に取り組んでいかなければ安全意識は必ず薄れていきます。日々のKY活動や通達も大事ですが、会社全体での取り組みとして、年1回の安全大会は極めて重要だと考えています。

 これらの議論の結果、検温、アルコール消毒の実施、マスクの着用、それぞれの距離を確保したうえで、例年行っている外部からの講師、来賓の出席の要請は行わず、社員と協力会社のみで時間を短くして行いました。

 大会では事務局からの活動報告、これまでの事故事例に基づく注意点と討議を中心に進められました。約1時間あまりの短い大会でしたが、これから1年間、安全に作業を進めることを全員で確認しあいました。「ご安全に!!」

            検温をしてから参加です

           出席した社員、協力会社の皆さん

          安全推進委員会事務局からの報告

             事故事例の説明と討議